パピエ・マシン


ジャック・デリダ『パピエ・マシン(上) 物質と記憶』(ちくま学芸文庫)の『来るべき書物』『ワードプロセッサー』『紙かそれとも私か。ご存知のように・・・』は、紙と書物にまつわるデリダの考えが語られていて、私にとって興味深い内容だった。媒体としての「パピエ」とは、タイプライターやワープロで使用する一葉の物質、紙を意味する。翻訳者の中山元は、哲学サイト「ポリロゴス」の主催者。


以下は、私の関心にしたがって読んだ「覚書」であり、『パピエ・マシン(上)』のすべてについて触れるものではない。デリダの著作について語り得る能力など、私にはないことをまず、お断りしておきたい。




冒頭の『来るべき書物』から、書物には二つの理念があり、

世界における支えと作品の統一性という理念と、語り(ディスクール)の統一性(書物の中の書物)としての統一性の理念です。(p046)


という。また、四本の逃走線とは、

1.戯れと真面目さ。
2.再構成としての他なる政治学
3.書物の法=権利。
4.書物の変身は、歴史の一瞬にすぎない。

一方では、書物の終焉がいわれ、他方では、エクリチュールの新しい空間への期待がある。
それでは、書物の行方とは?


ワードプロセッサー』では、より具体的に語られる。羽根ペンからタイプライターへ、さらに電動タイプライターが登場し、次にコンピュータが、そしてインターネットの時代へと、デリダ自身は経験してきている。


インターネットのサイトに掲載されているページは、<自動的な出版>の空間に属している、そして、公的なものと私的なものの区別がなくなる傾向がある。良きにつけ悪きにつけ、書物は「中断」の装置、書物による<停止>が、正統化のプロセスを保護しているとデリダは言う。

いまではすべてが公的な空間のうちに投げ込まれ、少なくとも一部の人からは出版できるもの、すなわち刊行されたものの古典的で、想像の上では普遍的で、ときには聖なるものとみなされています。・・・(中略)・・・
これまでの古典的な評価の審級では検閲してしてしまったような場合にも、議論を推奨し、発展させる可能性が生まれています。(p320−321)


次に『紙かそれとも私か。ご存知のように・・・』でデリダは、次のように語っている。

わたしはいつも紙という主題について、紙そのものに、紙について、紙の上に、紙について書いてきたのです。媒体であり、主題であり、表面であり、刻印であり、痕跡であり、書かれたものであり、書き込みであり、襞であるもの、それは同時にテーマでもありました。・・・(中略)・・・
紙とは、境界が限られた領域についての有限な「主題」であり、技術の歴史と人間性の歴史において、ひとつの時代を画する覇権の時間と空間のうちにある主題であることは明らかなのです。ところが、この紙の覇権の終焉が、量的な意味ではないとしても、構造的な衰微と後退の傾向が、ほぼわたしの「世代」において、一つの生の時間において突如として加速してきたのです。(p327)

紙は一つの束縛である以前に、仮想的なマルチメディアだったのであり、複数のテクストの好機であり、ある種のシンフォニーあるいはコーラスでもあるのです。少なくとも二つの意味において。
まず、一方では、法の力であり、束縛と呼ばれる侵犯によってです。紙が束縛であるのは、紙面の狭さ、脆さ、堅さ、ごわごわとした感じ、受動性、ほとんど死んでいるかのような、無感動さ、「応答のない」死後硬直のためです。これと対照的なのは、コンピュータやマルチメディア的なインターネットがすでに、対話型の検索能力と潜在的な対話能力をそなえていることです。・・・(中略)・・・
他方では、わたしたちが試みている技術的な冒険において、すでに紙から遠い場所まで進んでおり、わたしたちはある種の<前未来>を経験することができます。こうした冒険のおかげでわたしたちの読書が解放され、紙の過去の資源をふり返りながら探索し、すでにマルチメディア的なものとなったベクトルを探ることができます。(p339−340)

紙を保持すると同時に喪失するように望むことはできません。
保護する紙と後退する紙の両方を望むことはできないのです。ここで働いているのは自己免疫化の論理です。(p365)

紙とは一度に、同時に、電子媒体よりも強固であるとともに危いものであり、近いとともに遠いものであり、自分のものにしやすいとともにしにくいものであり、信頼できるとともに信頼できないものであり、操作しやすいとともに操作しにくいものであり、再生能力において保護されているものであるとともに保護されていないものです。
・・・(中略)・・・
忍耐し、迂回し、リスクを冒し、経験する行為、すなわち自己免疫的な脱私有化という道をたどらざるをえないのであり、このプロセスに身を委ねるしかないのです。(p366)


そして、デリダは「紙の憂鬱」について補足する。

わたしは絶対的な記憶を記録することのできるアーカイヴというものを夢見ているのです。すべての真理を手にすることを切望する瞬間にも(これはわたしにとって呼吸をするように自然な願いなのです)、わたしの想像力は紙の束の上に、このアーカイヴを投影しつづけるのです。画面ではなく(やがてそうなるかもしれませんが)、紙の束の上に投影するのです。・・・(中略)・・・
仕事なし。「熱中して仕事」することの終わり。でもこうしてわたしが書かせるもの、それは書物でも、冊子でもなく、紙の束でしょう。この束はひとりで巻かれ(わたしに)訪れるすべてのもの、身体、思想、イメージ、語、唄、思考、涙を記録する電子文書でしょう。そしてその他の事柄も。永遠の世界、さまざまな速度で記録される複数のリズムによる忠実な自己の記載。それでも遅滞なく、紙の上にすべてがーこの夢をお話したのはそのためです。紙の上に紙なしで。紙は書物のない世界のうちにあります。(p379)


デリダの思想について語る資格は、私にはありません。自分の関心に引き寄せて、紙や書物やそれらを保存するアーカイヴについてデリダが語る「夢」は、きわめて示唆に富んでいる、としか言えない。
書物や紙に記されるいる記録類(エクリチュール)あるいは、記録されたディスク−ルなどは、比較的アーカイヴへの収集が可能であるが、ネット上のサイトのアーカイヴ化は、きわめて困難である。デリダの上記の<夢>は、長期的な視野に立脚したものであることに、氏の予見の深さが分かる。


紙と書物。永遠に困難な課題であり、デリダのいう「脱私有化」の方向に、新たな希望を視るほかないといえるだろう。


なお、『パピエ・マシン(下)』も刊行されたが、媒体としての紙や書物については言及していないので、とりあえず読むだけにとどめておきたい。また、12月末に刊行された『デリダとの対話』(叢書ウニベルシタス、法政大学出版)も、書評の宿題として課されている。大学での「円卓会議」を収録したものなので、「脱構築」を知るためには読みやすいのだが、進捗していないのが気がかりになっている。



パピエ・マシン〈下〉 (ちくま学芸文庫)

パピエ・マシン〈下〉 (ちくま学芸文庫)


デリダとの対話―脱構築入門 (叢書・ウニベルシタス)

デリダとの対話―脱構築入門 (叢書・ウニベルシタス)