太宰よりも安吾を好む

人間失格

蜷川実花監督『人間失格太宰治と3人の女』(2019)を見た。

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映画の設定は、昭和21年から始まり23年で終わる。戦後の混乱期だが、映像は時代感覚を混乱させるほど美しく、花が絢爛豪華に咲き、画面を浮遊する。戦後の時代の雰囲気や衣装などは、汚れてきたないはずだが、蜷川監督は全く気にせず、全てを美しく撮っている。

 

太宰治小栗旬)は、戦後文壇の中で傑作を書くべく模索したいた。そこに沢尻エリカ(太田静子)から誘いの手紙が届く。太宰の自宅では、妻・美智子(宮沢りえ)が二人の子どもを育てながら夫を支え、3人目の子どもを妊娠している様子。

 

沢尻エリカとの出会いは後に、『斜陽』として作品化され、ベストセラー作家となる。

蜷川実花氏は、実話をもとにしたフィクションとことわっている。

 

ヴィヨンの妻』にまつわる評判や、志賀直哉への批判『如是我聞』を編集者(成田凌)に、口述筆記させる。

更に、後に心中する相手、山﨑富栄(二階堂ふみ)の援助を受けて、『人間失格』を完成させるなど、基本的に事実ベースを押さえている。

太宰治の戦後を、これほど鮮やかに美しく切り取ったのは、蜷川実花氏の卓抜した表現力だったと思う。

 

三人の女性、宮沢りえ沢尻エリカ二階堂ふみは、それぞれ個性が発揮されており、とりわけ、夫人役の宮沢りえは、太宰死後マスコミが殺到しても、平気で洗濯を始める光景は、女性の強さを体現し圧倒される。沢尻エリカも、太宰を利用して自ら作家的に『斜陽日記』を刊行してみせるところなど、誇らしげである。二階堂ふみは、自らの自殺願望に太宰を誘い込み、意地をみせる。それぞれ好演といえるだろう。

 

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太宰治全集 全10巻セット (ちくま文庫)

太宰治全集 全10巻セット (ちくま文庫)

 

 

 

随分長い間、太宰治を回避してきた。持っているのは、ちくま書房版の文庫全集10冊。戦後に関わる作品だけでも再読してみたいと思わせる。

 

もう一つの太宰治伝 桜桃とキリスト (文春文庫)

もう一つの太宰治伝 桜桃とキリスト (文春文庫)

 

 太宰治に関する論文や関係本は多数ある。奥野健男太宰治』を既読しているが、書架を探してもみつからない。長部日出雄『桜桃とキリスト』(文藝春秋,2002)が書家で見つかった。太宰が、美知子夫人との出会いから始める、興味深い評伝だった。

 

 最近では、『太宰よ!45人の追悼文集』(河出文庫,2018)が刊行されている。
如何に多くの作家や、評論家が太宰に想いを寄せていたかが解かる読み物だ。

 

 

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映画では、安吾役の藤原竜也が線が細いのは、やむを得ないだろう。

 

坂口安吾は、太宰の情死について下記のように記している。

どんな仕事をしたか、芸道の人間は、それだけである。吹きすさぶ胸の嵐に、花は狂い、死に方は偽られ、死に方に仮面をかぶり、珍妙、体をなさなくとも、その生前の作品だけは偽ることはできなかった筈である。
 むしろ、体をなさないだけ、彼の苦悩も狂おしく、胸の嵐もひどかったと見てやる方が正しいだろう。
この女に惚れました。惚れるだけの立派な唯一の女性です。天国で添いとげます、そんな風に首尾一貫、恋愛によって死ぬ方が、私には、珍だ。惚れているなら、現世で、生きぬくがよい。
 太宰の自殺は、自殺というより、芸道人の身もだえの一様相であり、ジコーサマ入門と同じような体をなさゞるアガキであったと思えばマチガイなかろう。(「太宰治情死考」)

 安吾の太宰情死解釈は、納得できるものだ。

 

 太宰は文庫版全集だが、安吾は、筑摩書房版『坂口安吾全集』を持っている。

太宰よりも安吾を好むと言いたい。生きることは「堕落」することであり、安吾は47歳で死去するも、最後まで求道精神で生き抜いた。

 

坂口安吾全集〈06〉

坂口安吾全集〈06〉

 

 

堕落論・日本文化私観 他二十二篇 (岩波文庫)

堕落論・日本文化私観 他二十二篇 (岩波文庫)

 

 

ラース・フォン・トリアーは畏怖すべき芸術家である

ハウス・ジャック・ビルト


ラース・フォン・トリアーの最新作『ハウス・ジャック・ビルト』(2018)を見る。
見る者を不快にさせる映画だが、主人公は監督の分身であり、距離を置いて見ることで、芸術作品としてなぜこのようなサイコキラーの男を主人公にして、残酷な映画を撮ったのか。

あらかじめ結論的に述べると、哲学的な読解を求める映画になっているからである。

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殺人鬼ジャック(マット・ディロン)は、遺体でもって建築物を造り上げる12年間を、五章仕立てで見せている。

 

第一の出来事は、ユマ・サーマンが車の故障でジャックに同乗する。犠牲者その一。


第二の出来事は、シオバン・ファロンが未亡人役。ジャックは保険外交員を装い、未亡人は第二の犠牲者となる。


第三の出来事は、二人子ども連れの女性とピクニックに行く。ジャックは、赤い帽子をかぶり、猟銃を使用する。子ども二人と女性は第三の犠牲者となる。

 

第四の出来事は、若い女性(ライリー・キーオ)の胸にジャックが線を引き、彼女はやがて第四の犠牲者となる。

 

第五の出来事は、ジャックが五人の男性を誘拐し、一発の弾丸で一気に殺そうとする。そこへ登場するのが、謎の男・ブルーノ・ガンツである。

 

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作品の中に引用されるグレン・グールドによるピアノ演奏、ドラクロアの絵画「ダンテの小舟」を出演者が演じるような活人画仕立て、更には、ゴーギャンタヒチを描いた絵画「我々はどこから来たのか,我々は何者か,我々はどこへ行くのか 」が提示される。これらの引用は、この映画の内容にかかわる。

 

グレン・グールドのピアノ演奏風景の挿入は、フォン・トリアーの嗜好なのか、あるいはジャックの好みなのかいずれかであろう。頻繁に挿入されることは、この映画が、グールドの演奏スタイルに関係している*1ことを示している。

 

「ダンテの小船」の活人画は、ゴダール『パッション』を想起させるが、ダンテ『神曲』の地獄編につながっているようである。

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ゴーギャンの絵画のショットは、一瞬に夢見る桃源郷だろうか。ジャックは、農夫たちが大きな鎌で草を刈るシーンを、何度か、画面を通して彼の内面を写しているように見える。

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エピローグでは、ブルーノ・ガンツがジャックをダンテ『新曲』で描かれる、地獄へ導く。ジャックの心の内に踏み込むことなく、客観的に描かれているので、距離を置いて見れば、いかにもラース・フォン・トリアーの刻印が写されている作品であることに衝撃を受ける。見るものを不快にさせる映画監督は少ない。その点でもフォン・トリアーは、作品公開ごとに問題作とされる。主人公へ感情移入をしなければ、ラストは見る者が救われるように作られている。

 

奇跡の海』(1996)が出会いであったが、その後『ダンサー・イン・ザ・ダーク』(2000)『ドッグヴィル』(2003)『アンチクライスト』(2009)『メランコリア』(2011)『ニンフォマニアック 』(2013)と見てきた。

 

個人的には、『ドッグヴィル』のおよそ映画として成立しえない舞台劇風な仕掛け(舞台上に線を引くだけ)の中で、ニコール・キッドマンが最高の演技をみせたことに評価を与えたい。

 

ラース・フォン・トリアーの作品

 

 

ダンサー・イン・ザ・ダーク(Blu-ray Disc)

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メランコリア [Blu-ray]

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*1:グレン・グールドの演奏は、頑固な自己スタイルを貫き通したという点では、監督ラース・フォン・トリアーに似ている。むしろ、フォン・トリアーが、グールドの芸術的な生き方に共鳴しているというべきだろう。

『こころ』異聞は、女性の強さに着目している

 『こころ』異聞

『こころ』異聞: 書かれなかった遺言

『こころ』異聞: 書かれなかった遺言

 

 

若松英輔著『『こころ』異聞』(岩波書店,2019)を、7月1日購入後、一気に継続して読んだ。最近、読書に集中できない状況の中で、5日間で読了するとは、以前に比べると稀有な体験と言わねばなるまい。それだけ、惹きつける魅惑に満ちた、『こころ』新解釈と形容できる充実した内容だった。

 

『こゝろ』研究史

『こゝろ』研究史

 

 

漱石『こころ』については、膨大な研究歴史があり、それをまとめたものに、仲秀和著『『こころ』研究史』(和泉書院,2007)がある。仲氏は第一部で、「問題の所在と同時代批評、昭和20~30年代批評、昭和40年代の研究、昭和50年代以降の研究、昭和60年代以降の研究。ここまでが、菊版全集による。それに漱石自筆研究を基に新編集した平成版全集を対象とする平成6年以降の研究。以上を8章に分けて紹介している。とりわわけ40年代の「作品論」、60年代の「テキスト論」を中心に、問題の所在を説明し、「『こころ』についてはある程度論じ尽くされてきている」と述べている。


「文学研究の方法」の見直しがあり、「文化論」「文化史」的な、『こころ』の読み直しは「現在進行中」であると、記している。しかし、おおむね提起された問題の所在は、解き尽くされてもいるようだ。

第2部は、「『こころ』文献目録」であり、これも書誌的に貴重な資料である。

 

心 (定本 漱石全集 第9巻)

心 (定本 漱石全集 第9巻)

 

 

現在第2次『漱石全集』が定本*1として配本中であるが、平成版漱石全集と称する、この全集を、若松氏はテキストに採用することの理由を記している。同時代からの読者が読んできたテクストとは異なる『こころ』ではある。ここは、著者の主張に従い、本文を読んでみることにした。

 

漱石という生き方

漱石という生き方

 

 

若松氏の新説とは、『こころ』の書き手である「私」は、何歳なのだろうかという疑問から出発している。

「先生」が自殺した年は、1912年、35歳。「お嬢さん」こと「先生」の妻・静は28~29歳くらい。「私」は「先生」より十余歳下であると、著者は、全集の編集者であった秋山豊と、『こころ』註解者の重松泰雄の二人に依拠している。

 

筆者には『こころ』に記された文字そのものが「私」の遺書だったように思われてならない。読者である私たちは、二つの遺書を読んでいたのではないか。その行間からは、「先生」の年齢を超えた「私」の姿が、行間からくっきりと浮かび上がるのである。(p.232)

 

この結論に至るまでに、キリスト教の苦行=求道を、キーワードに読み解く。井筒俊彦内村鑑三河合隼雄など*2を引用しながら、Kの求道者的生き方と、「先生」のKへの共感する部分があり、Kを自殺させた原罪を背負い、自ら「遺書」を「私」に託すことになる。

本書の読みどころは、「庇護者の誤認」にある。

妻はあるとき、「先生」に「男の心と女の心は何(ど)うしてもぴたりと一つになれないものだろうか」という。/「先生」は、「若い時ならなれるだろうと曖昧な返事を」する。それを聞いた妻は「自分の過去を振り返つて眺めてゐるやう」だったが、やがて微かな溜息を洩ら」(百八)す。/男の目から見て頼りなさそうに映る女性も、男が思うほど弱くない。むしろ、男の方が、芯に脆さを抱えている場合が少なくない。/心を一つにしたい、そう語った妻は、自分たちの関係は、助ける助けられる関係ではなく、人生の試練を前にするときも、ふたりで生きていくと決めたのではなかったか、と夫に問い返しているのである。(p.225)

 

若松氏の新説は、『こころ』という小説がもつ構造的な内容から、女性の視点とキリスト教的に捉える方法であった。

静の「男の心と女の心は何(ど)うしてもぴたりと一つになれないものだろうか」という問いから女性の視点に立つ方法は、管見の限り若松氏の発見と言ってもいい。


たしかに、新鮮な解読方法といえよう。しかしながら、『こころ』の不可思議な作品の全貌を解明するための一視点を提供したと言えるが、<諸問題の解読>を一挙に伏線を回収したことにはならないところが、『こころ』が厄介テクストである所以でもあるのだ。

まあしかし、ここは、若松英輔氏の新解釈が、『こころ』研究史に一点加わった功績を、指摘すれば十分だろう。

 

なお、『こころ』研究本としては、石原千秋編集の下記のムックがある。

 

夏目漱石『こころ』をどう読むか: 文芸の本棚

夏目漱石『こころ』をどう読むか: 文芸の本棚

 

 また、漱石作品の読み方についての基本は、次の図書が示唆的である。

 

漱石はどう読まれてきたか (新潮選書)

漱石はどう読まれてきたか (新潮選書)

 

 

*1:この定本全集に関しては異論がある。平成版が、それ以前の読者を無視していること、書物として100年近く読まれてきた菊版全集を全否定する平成版は定本として良いのだろうかという疑問が常につきまとう。

*2:これら著者、とりわけ井筒俊彦は若松氏の専門であり、宗教関係に関する知見は井筒氏に負うところが多いようだ。

「死」をどのように受け入れるかを問う問題作

長いお別れ


『湯を沸かすほどの熱い愛』で、監督・中野量太の名前が強く印象つけられた。 

映画「長いお別れ」オリジナル・サウンドトラック(特典なし)

映画「長いお別れ」オリジナル・サウンドトラック(特典なし)

 

 

今回は、中島京子原作『長いお別れ』を、画面と印象的な光景や、ことばで、父の認知症を経年的に、周囲の家族の眼で捉えた、傑作に仕上がっている。

 

長いお別れ (文春文庫)

長いお別れ (文春文庫)

 

 元中学校長の山﨑務が70歳の誕生日に、妻・松原智恵子は、娘二人を呼び寄せる。
長女・竹内結子は、結婚してアメリカに居住。夫は研究者(北村有起哉)で子どもは、男子一人(蒲田優惟人、杉田雷麟の二人が出演)。

妻は、二人の娘に、父親が認知症にかかったことを告げる。以後、7年間に渡る緩慢なる父の死に向かう姿を、娘・孫の眼を通して描かれる。

恋愛をするが、うまく結婚にたどり着けない次女・蒼井優の7年間が同時に物語の複線として機能している。傑作である。

 

衝撃的なシーンがある。父親の友人の葬式に、次女・蒼井優が付き添う。旧友が父親に、元校長の父親に「弔辞」を代表して読んで欲しいと依頼されるが、実は、友人中村の葬儀だということが分かっていなかった。おかしくも哀しい残酷な光景だった。

 

 誰もが死に至ることは自明だが、死はつねに他者の死としてしか捉えられない。死に逝く者の心情を描くことは難しい。父親・山﨑務の記憶は次第に薄れて行き、「帰りたい」という言葉をよく使う。家族は、どこに帰りたいのか、謎解きのように推測する。実家への旅が、「帰る」場所の一つであったことが分かる。山﨑が、妻の松原智恵子を両親に紹介したいと、かってなされたプロポーズの反復は、見る者の心を和らげる。

 

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「帰る場所」はもう一つあった。行方不明になった父親がGPS装置により、遊園地に居ることが分かる。母が思い出す。長女・次女姉妹が子どもの頃、遊園地へ行き雨に降られていると、留守番をしていた父親が傘を持って迎えにきたことがあった。

ここで、映画の冒頭シーンに繋がる。父親が傘を持って迎えにきたことがある遊園地で、メリーゴーランドに乗った記憶。遊園地で見知らぬ子どもたちに頼まれ、父親が子どもたちと一緒に、メリーゴーランドに乗るシーンに繋がる仕掛けになっている。ここも、父親が「帰りたい場所」だったのかも知れない。

 

父親が認知症を患い死に至るまでを、家族が時間をかけて見送るフィルムは、一種の奇跡のようなドラマを記録した映画になっている。

 

中野量太作品

 

湯を沸かすほどの熱い愛
 

 

 

チチを撮りに [DVD]

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ブラックユーモアとは決して言えない映画

ブラック・クランズマン

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スパイク・リー監督作品『ブラック・クランズマン』(2018)を観た。

 

ブラック・クランズマン

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風と共に去りぬ』でヴィヴィアン・リーが、医者を探してアトランタの町の広場に横たわる南軍兵士の間を歩き廻る俯瞰ショットを、映画の冒頭に引用する。
この『風と共に去りぬ』の提示は、舞台が南部であるということだろうか。映画『ブラック・クランズマン』の時代は1970年代前半であるようだ。

 

風と共に去りぬ (字幕版)

風と共に去りぬ (字幕版)

 


黒人警察官ロン(ジョン・デビッド・ワシントン)が、電話の声で白人になりきりKKKに入会する。但し、送りこむ人物は白人でユダヤ人のアダム・ドライバーが演じるフリップ。この設定が面白いし、警察内ではユーモアが効いているが、KKK内部に潜入したフリップにとっては、冗談では済まされない。KKKは、黒人のみなず、ユダヤ人をも敵としていたことを、スパイク・リーは、映画を通して伝えようとしている。これは、ユダヤ人が黒人に次いで迫害の対象とされていたことを示している。

 

國民の創生 D・W・グリフィス Blu-ray

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 KKK内部で、グリフィスの『国民の創生』上映があり、KKKが活躍するシーンには拍手喝采アメリカファースト」と叫ぶ。一方、黒人の集会で老人が、過去に知的障害の黒人少年が、犯人にされ強姦の罪で処刑された事実を述べるシーンが、カットバックで示される。KKKと黒人グループ会合が、交互にカットバックされ、緊張感が増幅される。

 

 そもそも、映画手法のカットバックとは、グリフィスが発明したと言われているから、スパイク・リーは、反=グリフィス映画として撮ったのだろう。


ラストはロンと恋人パトリス(ローラ・ハリアー)は、ノックの音に拳銃を身構えて、廊下に出る。すると、場所は2016年のシャーロッツヴィルに移動しており、ニュース映像が流される。

 

現在の大統領トランプをニュース映像的に、シャーロッツヴィル事件の映像の後、KKKを支持するかのような発言を取り込んでいる。映画史とアメリカ黒人の差別の歴史が重層的に描かれており、幾重にも黒人差別問題が未解決であり、『国民の創生』上映後にKKK会員が増加したごとく、トランプ出現により、白人至上主義が復権されていることを怒りを持って告発している。


『ブラック・クランズマン』は、単純に『グリーンブック』のような絶賛の判断を下すことが困難な、ある種危険なフィルムではあるが、少なくともKKKへの挑戦であり、トランプ的存在の否定であることに間違いない。

 

 

 スパイク・リーは、現アメリカ大統領の名前を口にしたくないと、存在自体を否定していることは強調しておくべきだろう。

 

スパイク・リー作品

 

 

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シャーロット・ランプリングは老いの美しさを露出している

ともしび

 

シャーロット・ランプリング主演『ともしび』(Hannah,2017)は、老境にさしかかった主婦が、遭遇する一種普遍的な問題を内包している。冒頭、画面の右側にアン(シャーロット・ランプリング)の顔のアップが映り、奇妙な声が続いて発せられる。何かと思うと、演劇グループに参加していることがカメラの移動によって分かることになる。

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ともしび

 

アンナは地下鉄に乗って帰るが、窓に写された若い女性の着替えや化粧などを一種軽蔑の眼で静かにながめている。


冒頭から、アンナはほとんど自分の声を出すことはなく、行動に比重が置かれ、彼女の内面は推測するしかない。

夫と二人暮らしだが、淡々と夕食をとった翌朝、夫は刑務所に収監される。その罪状は映画の中では明かされない。

アンナは、ある裕福な家の家政婦をアルバイトとして、行っている。そこには、障害を持った子どもがいる。

あるとき、会員制プールで泳ぎ、帰り際に窓口で、会員資格の期限が切れていることが告げられる。

またあるときは、孫の誕生日祝いにケーキを造り、息子の家の前まで行くが、息子に拒否される。

アンドレア・パロオロ監督の意図は、どこにあるのか。きわめて分かりにくいように作られている。すなわち、キャメラは、アンナ(シャーロット・ランプリング)の行動と表情を捉えるのみで、内容を説明するナレーションがないし、言葉を極力排除している。

ラスト近く、アンナは、海に打ち上げられたクジラを見に行く。その意味も明かされない。

地下鉄の階段を延々と降りて行き、エスカレータがあるにもかかわらず、黙々と降りてホ-ムにたどり着く。電車が入ってきて乗車する。ドアが閉まり、走り去る。暗転して映画は終わる。


『ともしび』全体にわたり、キャメラは常に、シャーロット・ランプリングを捉えている。時には全身像のロング・ショットはあるが、接近して彼女の存在を、70歳になる一人の女性として見事なまでに美しく描いている。女優が、その存在を中心に、日常を追っているドキュメンタリーのようにも見えるが、あくまでフィクション=映画にほかならない。

 

一人の女性の老いの美しさを淡々と捉えた秀逸なフィルムだった。

 

シャーロット・ランプリングの作品

 

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「トルストイを読み給へ」と小林秀雄は答えた

 

アンナ・カレーニナ


ずっと敬遠していた作家トルストイの最高傑作とも言える『アンナ・カレーニナ』(望月哲男訳,光文社古典新訳文庫)全4冊、8部を読了した。アンナとヴロンスキーが中心というか、むしろ狂言回し的に書かれていること、リョーヴィンこそがトルストイに他ならないことを了解した。

 

 

アンナ・カレーニナ〈3〉 (光文社古典新訳文庫)

アンナ・カレーニナ〈3〉 (光文社古典新訳文庫)

 

 


すなわち、リョーヴィン、キティ、ドリーが19世紀ロシア貴族の生活者の姿なのだ。

シドニー・シュルツによれば、「作品を構成する239の章は、34のセグメントにかれていて、しかもアンナとリョーヴィンのセグメントがそれぞれ17といういわばバランスのとれた構造をなしている」(p588「第3巻 読書ガイド」)と言う。

 

 

アンナ・カレーニナ〈4〉 (光文社古典新訳文庫)

アンナ・カレーニナ〈4〉 (光文社古典新訳文庫)

 

 

 

アンナ・カレーニナ』のタイトルを担うアンナと、リョーヴィンが同じ比重で書かれていることが解かる。しかも全体の構造からみれば、第7部でアンナの死により、物語の結末が示され、アンナ死後つまり登場人物達のその後第8部が割かれていることになる。

 

ヴロンスキーは、次の戦争に参加すべく旅立つ。リョーヴィンとキティの田舎生活は、平和に続きそうだ。それにしても、翻訳の技術を除外しても、トルストイの小説構成力は、19世紀において抜群の上手さであることを感じさせる。

 

 

 

アンナ・カレーニナ』読了後、『クロイツェル・ソナタ』を読み、生・性・恋愛・結婚などについて、妻を殺害した男が倒叙法ににより淡々と自説を述べて行く手法と、あるいはトルストイ自身の考えが反映されていると考えられる。

 

 


ナボコフの『ロシア文学講義下』(河出文庫,2013)では、タイトルを『アンア・カレーニン』としている。つまりカレーニン夫人というわけだ。原題は"АннаКаренина"になっており、女性名の「カレーニナ」とするか「ボヴァリー夫人」のように「カレーニン夫人」でもいいだろう。

 

ナボコフによれば作家の順位は一番トルストイ、二番ゴーゴリ、三番チェーホフ、四番ツルゲーネフとしており、ドストエフスキーについては、

人々にたいするドストエフスキーの自己満足的な憐み―虐げられた人々への憐れみは、純粋に情緒的なものであって、その一種特別毒々しいキリスト信仰は彼がその教義から遥かにかけ離れた生活を送ることを決して妨げはしなかった。一方、レオ・トルストイはその分身のリョーヴィンと同じように、自分の良心が自分の動物的性情と取引することをほとんど生理的に許せずーその動物的性情がより良き自己にたいしてかりそめの勝利を収めるたびに、ひどく苦しんだのである。(p.15『ロシア文学講義下』)

トルストイとは対照的に評価している。

 

ドストエフスキー評価は、ナボコフと異なるが、『アンナ・カレーニン』と『イワン・イリイチの死』を解説することで、トルストイへの絶賛的な評価には賛同したいと思う。

 

小林秀雄全集〈第4巻〉作家の顔

小林秀雄全集〈第4巻〉作家の顔

 

 


以下は関連事項として記述する。小林秀雄トルストイの家出について正宗白鳥と論争をしている。批評文「思想と実生活」と「文学者の思想と実生活」を読む。

「実生活を離れて思想はない。併し、実生活に犠牲を要求しない様な思想は、動物の頭に宿っているだけである。社会的秩序とは実生活が、思想に払った犠牲に外ならぬ。・・・(中略)・・・思想は実生活の犠牲によって育つのである。」(p.72『小林秀雄全集』第四巻)

いかにも小林秀雄らしいレトリックである。小林秀雄は、ドストエフスキーに多くの評論を残している。『ドストエフスキイ』や『ドストエフスキイの生活』など。「永遠の良人」から始まり「未成年」「罪と罰」「白痴」「地下室の手記」「悪霊」「カラマゾフの兄弟」と主要作品について言及しているが、トルストイに関しては、少ない。

 

小林秀雄は、ドストエフスキーについて以下のような考えを書いている。

ドストエフスキイの実生活を調べていて、一番驚くのは、その途轍もない乱脈である。彼の金銭上の乱費なぞは、その生活そのものの浪費に比べればいうに足らぬ。・・・(中略)・・・僕は実生活の無秩序に関する、彼の不可思議な無関心を明瞭に説明する言葉を持たぬ。(p.67『小林秀雄全集』第四巻)

以上のようなことが、ドストエフスキーについて多く言葉を綴る根底にあったと思われる。


さてそのような小林秀雄が、「トルストイを読み給へ」(『小林秀雄全集』第十二巻)を執筆しているのは、トルストイ「作品」への評価と言えよう。

 

「若い人々から、何を読んだらいいかと訊ねられると、僕はいつもトルストイを読み給へと答える。」(p.105『小林秀雄全集』第十一巻)


と回答している。ドストエフスキーではなく・・・

なお、小生のトルストイの読書計画は、『復活上・下』(新潮文庫)で最後にしたい。

 

復活(上) (新潮文庫)

復活(上) (新潮文庫)

 

 

 

復活(下) (新潮文庫)

復活(下) (新潮文庫)