古井由吉は最後の日本近代作家であり、作品は古典になる

古井由吉の文(アンケート)


『新潮』(2022年3月号)に古井由吉三回忌に寄せてと題して、19名の作家・評論家などから、あなたの一文を寄せる」アンケート回答が掲載されている。

まずは、19名による引用文を列挙してみよう。

 

石井遊佳

 

汗まみれになった気分から、数日来垢をためこんでいたことを思出して風呂場の明かりをつけ、残り湯を静かに、貰い湯のようにつかううちに、わずかに揺れる湯の、桶を叩く音があまりにもひそやかに、奇妙な切迫感を孕んで聞こえてきて、身動きがならなくなった。(「槿」『槿』[1983])

 

 

岸政彦撰

 

やがてその手も髪もなくなり、撫でる感触だけが細く続いた。(「祈りのように」『夜明けの家』[1998])

 

佐伯一麦


 われわれは、局地局地につっこまれた兵隊ですから(「背中ばかりが暮れ残る」『陽気な夜回り』1994)

 

 

鈴木涼美
 腹をくだして朝顔の花を眺めた。(「槿」『槿』1983)

 

 

楽天の日々

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諏訪敦撰

 

しかも写実はそれ自体、いくらでも過激になり得る。そのはてには、写すべき「実」を、解体しかかるところまで行く。写実と写生との違いはその辺にあるらしい。(「写実ということの底知れなさ」『楽天の日々』[2017])

 

 

 

 

 

諏訪哲史


 とにかく、分解するうちにいつか、あるいはいきなり、歌っている。(「訳者からの言葉」『愛の完成・静かなヴェロニカの誘惑』[ロベルト・ムージル作・訳者あとがき 1987])

 

 

 

風花 滝澤紀久子撰

 

若い人は、今は今と見ていますので、それはたしかなものです、年寄は今を見ていても、どうかすると、今も昔も、先のことも、つい見境いがつかなくなって、と笑いながら、霧の奥から往く人の声が伝わってくるかのように、聞き入る顔つきをしていた。(「生垣の女たち」『やすらい花』[2010])

 

 

 

 

田中慎弥


あるいは、さびしくなった日の暮れの道でたまたま会って、お互いに何となく気に入って、数日はいつも連れ立っている子供か、犬のようなものだったかもしれない。(「不眠」『夜明けの家』[1998])

 

谷崎由依


 

―暗い夢を見ているうちはまだ安心、夢が明るくなってきたら、用心したほうがいい。(「椋鳥」『木犀の日』[1998])

 

 

 

中村文則

 

[―、]何も知らないので早く教えてやらなくては、[・・・](「やすらい花」『やすらい花』[2010])

 

蓮實重彦

 

夜の更けるにつれて表ではまた風が変わったようでうすら寒さの染みる背中から、雪折れの花が家の隅々の暗がりから照った昔を思い出して、世の厄災というほどの事はあの直後に起こっていなかったはずだが、敗戦の五月の、家を焼かれるまでの梅雨時のような鬱陶しさに苦しむ子供にも、肌のつらさからどこかに今を盛りと咲きこぼれる花の色が、悪夢めいた美しさを帯びて見えていたのではないか、とうに散ったその年の花ではなくて、もっと幼い心に無心に見あげた、あるいは、さらに知らぬ昔の、とたどれもしないものをたどろうとするうちに、―見ぬ世まで思ひのこさぬ眺めより/昔にかすむ春のあけぼの/そんな古歌が、和歌というものをめったに諳んずることのできぬ頭の中へ、すんなりと浮かんだ。(「後の花」『ゆらぐ玉の緒』[2017])

 

平野啓一郎


やがてその手も髪もなくなり、撫でる感触だけが細く続いた。(「祈りのように」『夜明けの家』[1998])

 

日和聡子


自分は生涯、こうしてあの辻へ向かって歩き続けることになるのではないか、と夢の ようなことを思った。(「辻」『辻』[2006])

 

古井睿子撰 

いかにも寂しげな眺めであるが、しかしすでに初秋の晴れた日に、北風が吹いて、枯れても強靭なその葉がカラカラと鳴る時、どうかすると樹全体がいま一度の紅葉、恍惚として燃えあがる。壮絶な最後である。しかし来春の甦りの約束でもある。(「林は日々に新しい」「現代林業」[2001])

 

 

 

堀江敏幸

 

あまりにも濃い反復感というものは、その中に踏み込んでついたたずんだ者にとって、日常の内から、思いがけない時空へつながる。抜け穴の入口みたいなものだ。(厠の静まり」『仮往生伝試文』[1989])

 

又吉直樹

 

その竹箒の使い方と言い、日の永そうな様子と言い、薄曇りのもとの残花と言い、いまどき懐かしいような光景に見えて、すぐそばを行きかう車の喧騒の中で神寂びなどという場違いの言葉まで思わされ、目礼して通り過ぎてから振り返れば、ようやく掃き集めた花びらを車道の際の、排水溝の中へ掃きこもうとして、孔の口が細くて思うにまかせず、箒の先を立てて押しこみ押しこみ、それでも埒が明かずに足まで挙げて踏んづけるようにするうちに、ほんのりとしていた顔が赤黒く濁り、白髪もちりちりと熱するようで、物狂いの忿怒の形相が剥げて出た。(「やすらい花」『やすらい花』[2010])

 

 

町田康

 

今夜も馬は来ているだろうか、と花の下を抜ける時にちらりと思った。/今夜も帰って来ないようだ、と馬が頭の花びらを振るい落とした。(埴輪の馬」『野川』[2004])

 

松浦寿輝

 

鈍色にけぶる西の中空から、ひとすじの山稜が遠い入江のように浮かび上がり、御越山の頂きを雷が越しきったと山麓の人々が眺めあう時、まだ雨雲の濃くわだかまる山ぶところの奥深く、山ひだにつつまれて眠るあの渓間でも、夕立ち上がりはそれと知られた。(「木曜日に」『円陣を組む女たち』[1970])

 

村田喜代子

 

あれは食い物の鬱陶しさの精のようなもの、物を食うということの憂鬱さをひとつに煮つめたようなものだ。(「水漿の境」『仮往生伝試文』[1989])

 

 

こうして書き写しているだけでも、古井由吉の文体の凄さに慄く。現代作家たちは、自分のお気に入りの古井由吉の「文」を古井由吉三回忌に寄せて上記のように撰出した。現代作家でなくとも、誰もが大いに気になる近代作家であり、「内向の世代」を代表して、古井由吉文学史の「古典」(カノン)となった。

岸政彦と平野啓一郎の二人は、全く同一の作品の中の同じ一文を撰出している。『夜明けの家』の中の短編「祈りのように」である。岸氏は「この短い作品のなかで、「人はみな死ぬ。あとには時刻と感触だけが残る」とコメントしている。平野氏は「抽象性と具象性との極限的なその融け合い方に衝撃を受け・・・」と絶賛にちかいコメントを付している。

 

古井由吉は生前に、『古井由吉全エッセイ(全3巻)』(作品社、 1980)、『古井由吉作品(全7巻)』(河出書房新社 ,1982-1983)、『古井由吉自撰作品(全8巻)』(河出書房新社, 2012)の三種の作品集が刊行されている、稀有な作家である。没後2年が経過した。近年、作家の没後、個人全集が出版されなくなった。また死後、忘れられる作家も多い。古井由吉の場合は特別な存在だった。当然、古井由吉全集』が近々刊行開始されると思いたい。

 

 

古井由吉の新刊書

『連れ連れに文学を語るー古井由吉対談集成』(草思社,2022.02)

 

古井由吉歿後刊行図書(2021年以降)

古井由吉 著, 堀江敏幸 監修, 築地正明 編集『私のエッセイズム: 古井由吉エッセイ撰』(河出書房新社,2021.01)

 

古井由吉『こんな日もある 競馬徒然草』(講談社,2021.02)

  *古井氏の競馬関係エッセイ集

 

古井由吉東京物語考』(講談社文芸文庫,2021.05)

  *岩波書店1984刊の文庫版、解説:松浦寿輝「時空の迷路を内包する」

 

古井由吉佐伯一麦『往復書簡 『遠くからの声』『言葉の兆し』』 (講談社文芸文庫,2021.12) 

  *『遠くからの声』(新潮社、1999)と『言葉の兆し』(朝日新聞出版,2012)を  合本・改題したもの。 *解説:富岡浩一郎「手紙が紡ぐ「時」の流れ」

 

古井由吉『この道』 (講談社文庫,2022.02)

  *解説:松浦寿輝「そのかりそめの心ー古井由吉『この道』 」