山猫


ヴィスコンティの最高傑作の一本『山猫』(1963、イタリア語完全復元版)を観る。


着飾った紳士、淑女たちが公爵邸に集い、延々と繰り広げられる舞踏会は、『山猫』のおよそ三分の一にも及ぶ。シチリア島の伝統ある貴族・カリーナ公爵(バート・ランカスター)は、大勢の貴族連中の饗宴にうんざりしながらも、ひどい疲労感に捕らわれる。甥のアラン・ドロンの婚約者である村の実力者の娘クラウディア・カルディナーレの晴れ舞台の引き立て役を演じなければならないからだ。


気分が悪くなったバート・ランカスターは、書斎で休憩をとっている。その部屋には、グルーズ作「義人の死」の絵がかけられてあり、バート・ランカスターは、その絵の中に自らの<死>を視る。視線とその先にある絵画(死)という構図。そこへ、華やいだクラウディア・カルディナーレが入ってきて、ダンスを希望する。老公爵と若き美女の美しきワルツは、舞踏会の人々を圧倒し、カリーナ公爵の最後の輝きを誇示することになる。横で見ているアラン・ドロンでさえ嫉妬の眼差しで、二人を見つめるほどの迫力。長い長い舞踏会のハイライト・シーンである。ワルツを踊る老公爵と美女は、長いシークェンスのなかでもきわめて印象深い。踊り終えたあと、老公爵は、みんなが食事をとっている最中、食欲もなく会場をさまよい歩く。


壮大な舞踏会と宴会は明け方まで続く。夜明け、多くの貴族たちは馬車で、帰路につく。しかし、老公爵バート・ランカスターは徒歩でゆっくりと帰宅する。その途中で、神父が民家に入るのを視かけてひざまずき祈る。老公爵は、自己の<死>の影をみつめながら、「おお星よ、変わらざる星よ、はかなき現世を遠くはなれ、汝の世界に迎えるのはいつの日か・・・」と。余韻を残す素晴らしいシーンである。


舞踏会にいたる『山猫』の冒頭は、1860年イタリア統一をひかえ祖国統一を目指すガルバルディ率いる赤シャツ隊が、静謐な祈りに没頭しているカリーナ公爵邸にも、攻撃の気配が襲ってくる光景で始まる。甥のタンクレディアラン・ドロン)は時流に聡く、赤シャツ隊に加わり、途中で負傷して帰ることになる。政治的な流れが変わり、再び貴族階級の支配が復活すると、タンクレディは政府軍の一員となっている。変わり身の早さは、いかにもアラン・ドロンにふさわしい役どころ。


カリーナ公爵の娘ルチッラ・モルラッキが、甥のアラン・ドロンに恋をしているのを知りながら、父親である公爵はそれを許さず、成り上がりの新興実力者の娘クラウディア・カルディナーレアラン・ドロンに惹かれて行くことを許し、二人の結婚を認めてしまう。いわば、世代交代を老公爵は知り尽くしており、また、貴族社会の没落の行方を理解し、自ら貴族社会の崩壊に身を寄せるのは、貴族の末裔であったルキノ・ヴィスコンティ自身に重なる。


『山猫』のような、あるいは、『ルードヴィッヒ 神々の黄昏』(1973)のような作品は、もはや製作されることもないだろう。映画とは優れて20世紀的なメディアであったことが、『山猫完全復元版』によって確認できたというわけだ。美術の豪華さ。画面の美しさ。テーマの深遠さ。俳優の輝き。いずれをとっても、これ以上の作品を創ることができるとは思えない。


ジャン・ルノワールに師事したヴィスコンティは、ネオレアリスモを経験し、たどり着いた作品が、貴族社会の崩壊に同化するという自らの出自にかかわることで、出色の映像を造型し得たといえるだろう。ハリウッドの大作とはまったく趣を異にする魂を揺さぶる感動をもたらした作品群。


バート・ランカスターは、その後『家族の肖像』(1974)でも、死を控えた老教授を演じている。カウボーイ俳優であった凡庸な男は、ヴィスコンティの世界では渋くダンディな初老の貴族や教授を演じることで、完全にイメージを変容させたのであった。アラン・ドロンヘルムート・バーガーなど、美男俳優を演技派に成長させたことでも、ヴィスコンティの手腕は高く評価されていいだろう。


映画芸術の究極にあるのが、ヴィスコンティの作品群である。ヴィスコンティの前では、フェリーニも二流に視えてしまう。イタリア映画でいえば、『イタリア旅行』や『神の道化師フランチェスコ』のロベルト・ロッセリーニが、唯一ヴィスコンティに対抗できる作家だ。