イノセント


ルキーノ・ヴィスコンティ『イノセント』(1976、無修正版)をスクリーンで観る。修正版は観たが、違いはヘアと男性の性器が写されていることであった。日本公開時は「ぼかし」が入っていたので、他のヴィスコンティ映画のように上映時間に変更がはない。19世紀イタリア貴族社会の三角関係、いや四角関係か。


イノセント 無修正版 デジタル・ニューマスター [DVD]

イノセント 無修正版 デジタル・ニューマスター [DVD]


ジャンカルロ・ジャンニーニは、妻ラウラ・アントネッリが居ながら、妻をあたかも妹のように扱い、愛人ジェニファー・オニールに翻弄される日々を送っている。愛人とベネツィアに出かけるとき、妻へは「妹」的存在であることを明言している。夫の留守の間に、妻は義弟の友人で作家のマルク・ポレルと恋愛関係になる。


愛人に翻弄され疲れた夫は、久しぶりに実家の別荘を妻とともに訪れる。貴族として幾重にも覆われた妻の衣裳を夫が脱がせて行くと、そこにはきわめて肉感的官能的な妻の裸体があった。愛人に気をとられ、妻の肉体を忘却していた仕返しをあたかも妻の肉体が主張していた。妻が不調を訴えると原因が妊娠であることが判明する。勿論この間、関係を持っていない夫の子供ではなく、作家との間にできた不倫のこどもである。夫妻にとって、困惑した事態を招いてしまったのだ。堕胎を勧める夫に曖昧なまま時間をやりすごし、ついに赤ん坊を無事出産する。夫の意図による赤ん坊の死により、既に他界している作家への愛を、夫に告白する妻には毅然たる姿勢によって最後には女性の強さが示される。


ジャンカルロ・ジャンニーニが、ピストル自殺で自身の生き方に幕を引くことになるラストは、貴族社会の崩壊と同化しつつも、女性への視点に根底的な間違いを犯した貴族の末路と書けば、通俗的なメロドラマに思われがちだが、ヴィンコンティの映画は全く異なる。重厚な雰囲気、室内のピアノ演奏会や、オークション会場に集う貴族女性たちの衣裳はヴィスコンティならではの深みがある。映画は20世紀の芸術であったことを認めないわけにはいかないだろう。



遺作としては、『ベニスに死す』(1971)『ルートヴィッヒ』(1972)『家族の肖像』(1974)がはるかに相応しいと思えるが、唐突に遺作となった『イノセント』に描かれた三角関係は、処女作『郵便配達は二度ベルを鳴らす』(1942)の変容された反復であった。ジェイムズ・ケインの原作から著作権を無視して撮った作品(現題『妄執』)におけるマッシモ・ジロッティが、田舎のレストランでクララ・カラマイに出会う。彼女の夫を事故に見せかけて殺害するが、そのことが「妄執」となって、クララ・カラマイとの関係に亀裂が生じる。ラスト近く、クララの妊娠が告白されるが事故によって全てを失う男。処女作と遺作で、労働者マッシモ・ジロッティが、貴族ジャンカルロ・ジャンニーニに引き継がれ、クララ・カラマイの妊娠はラウラ・アントネッリの出産と、赤ん坊の死によって全てを失った男、マッシモ・ジロッティジャンカルロ・ジャンニーニが、ピストル自殺で幕を引くのは、ヴィスコンティの唐突な原作の変更ではなく、処女作への回帰にほかならない。



このようにみれば、ヴィスコンティはネオレアリスモから出発し、貴族階級の崩壊に至るわけだが、ドラマとしては見事に円環を閉じていることに気づくのだ。さて、『妄執』と『イノセント』の間に、ヴィスコンティは、12本の長編と3本の短編、さらに多くのオペラや演劇を演出している。それらの作品はネオレアリスモから官能と退廃の貴族映画まで、いってみれば「リアリズムの、あるいは絢爛豪華なメロドラマ」と表現できるだろう。


とすれば、改めて見直した『妄執』(『郵便配達は二度ベルを鳴らす』)は、ヴィスコンティのあらゆる才能が結晶化している、極言すれば最高傑作である*1と言えるのだ。フィルムを仔細に観ると驚きと発見に満ち満ちたフィルムであることに慄然とする。恐るべし、ヴィスコンティ


山猫 イタリア語・完全復元版 [DVD]

山猫 イタリア語・完全復元版 [DVD]

夏の嵐 [DVD]

夏の嵐 [DVD]

*1:個人的に好きかどうかの次元でいえば『家族の肖像』が一番気に入っている。