レフトアローン(LEFT ALONE)


井上紀州の『LEFT ALONE 2』を観る。この日は、最終上映日でスガ秀実と監督・井上紀州の簡単な舞台挨拶があった。『LEFT ALONE 1』は未見なので、この映画だけで、『LEFT ALONE』全体を論じることはできないが、松田政男柄谷行人津村喬花咲政之輔へのインタビューを繋いで、ラストは津村喬に収斂してしまったように視えてしまう構図。


スガ秀実自身は、トリックスター的存在となり戦後の左翼史を、知識人たちとの会話のうちにたどって行く手法だが、そもそも「68年革命」なるものが存在したのかどうか。スガ秀実は、この三十年間ほとんど変化せず、しかもいまだに「68年の革命」精神は持続しているという。果たしてそうだろうか。


『LEFT ALONE』を通して言えることは、戦後左翼運動史の「お勉強」以上でも以下でもない。しかも、ここで語られているのは、左翼史の一部に過ぎないこと。せいぜい、事実の断片(曖昧な)の経過として、観ることだろうか。


『LEFT ALONE 1』を観ていないので、書物によって補うしかない。
『ブックレット 重力 NO.1』から、鎌田哲哉スガ秀実の対談を読む。
そこでは、坂口安吾『イノチガケ』の「穴つるし」に言及し、花田ー吉本論争を絡めて、大西巨人の位置を問う。しかし、ここでの鎌田氏の言説に斬新な視点はない。鎌田哲哉柄谷行人が、追加原稿の掲載を巡って論争があったようだ。そのため、書物版『LEFT ALONE』には、鎌田の対談が削除されている。この種の論争は、形而下的なものに陥りやすい。理論的なテクストで判断すればいいのではないか。


井上紀州の作品が、2チャンネルなどで原一男の『ゆきゆきて、新軍』と比較されていることについて、スガ秀実は、最終上映日に、原一男を「反革命」だと断定していた。「革命」だの「反革命」とは何を基準にしているのか。「68年革命説」は所詮、スガ秀実の自己満足にほかならないのではないか。


西部遭については、書物版『LEFT ALONE』から読むしかないが、多くの評者は、はにかみながら語る西部氏に共感を示している。西部遭とは、本質的に保守的人物であり、いわばバランス感覚によって、己の位置を確認している。反アメリカの姿勢も、良くいえば中庸によるものである。西部氏の書物を一度読んだけれど、その悪文に辟易した記憶があり、以後、氏の著作は一切読むことを止めた。「文は人なり」と言う。悪文もまたその人物の人格を表現するものであるとすれば、読まずに批判することは控えなければなるまい。


さて、『LEFT ALONE』がドキュメンタリー映画として、どの程度成功しているのかが、問われることになるだろう。メルクマールとなるのは、小川紳介原一男である。
小川紳介は、1968年に『日本解放戦線・三里塚の夏』を撮っている。また、原一男は『全身小説家』を対象とすべきだろう。さらに小川紳介の場合、傑作である『ニッポン国 古屋敷村』(1982)と『1000年刻みの日時計・牧野村物語』(1987)があり、ドキュメンタリー手法の見本がある。原一男はスキャンダラスな『ゆきゆきて、神軍』(1987)よりも、井上光晴という作家を捉えた『全身小説家』(1994)と比較すべきだろう。


すると、『LEFT ALONE』の構図が視えてくる。行動するのはスガ秀実のみでり、あとは、対談という静的なシークェンスをどのように捉えるかにかかわる。どう解釈してみても、「68年の革命」が、現在も継続しているという楽観的視点は出てこない。スガ秀実は日本は良くなっているという認識であり、バブル崩壊後の階級から階層分化への流れが見えないらしい。中間層の拡散による富めるものと、持たざるものの格差は確実に拡大している。


敢えて挑発的に言えば、55年体制が経済的安定をもたらしていた。ベルリンの壁崩壊に続くソ連邦の解体は、歴史的必然であり、スターリニズムの崩壊として歓迎すべきであるこは、誰もが賛同するだろう。しかしながら、アメリカ的自由競争主義が徹底されることで、日本も次第に、アメリカ的グローバリズムに侵食されている事実をどう捉えるのか。


有事立法やイラクへの自衛隊派兵を、花咲は敗北・後退と認識している。ところが、スガ秀実は、「世界はいい方向に向かっている」とノーテンキなことを言っている。花咲・スガの対談で、明らかに花咲政之輔スガ秀実の「68年の革命」を批判している。井上紀州は、花咲氏と同世代であり、逆説的だが、井上=花咲の世代からスガ秀実全共闘世代への批判として読むことも可能なのだ。そのように視ることで、開かれているドキュメンタリーは価値を持つことになると言えるだろう。


柄谷行人は、籤引きと地域通貨のことを述べる。そして、暴力ではなく「理論」で勝負すべきであることをとつとつと話す。柄谷行人がいうように「心の問題にしたくない」こと「プロレタリア革命は、ブルジョワ革命のように華々しくない、ヒロイックでも、男性的でもない。静かで、目立たないものです。」(書籍版『LEFT ALONE』p211)



この柄谷行人のことばと、理論で勝負するという姿勢にこそ、「LEFT」の在り方を示唆しているのではないだろうか。また、埴谷雄高がいう「存在の革命」にこそ、未来があると私は思っている。


いずれにせよ、『LEFT ALONE』とは知識人にとって踏み絵的存在であることは確かだ。


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