帝国の構造


柄谷行人『世界共和国へ』(2006)の発売時に、拙ブログで触れたことがある。そこでは、氏の新書本を批判的に見ていた。しかし、著者のその後の出版物を読みながら、最新刊の『帝国の構造: 中心・周辺・亜周辺』(青土社,2014)を読むに至り、四交換様式の「D」が<世界システムの諸段階>の「世界共和国」(30頁)として提示された箇所で、ハタと気がついた。


帝国の構造: 中心・周辺・亜周辺

帝国の構造: 中心・周辺・亜周辺


「交換様式」を、「世界システム」に置き換えることで、著者の姿勢がはっきり視えてきたのだ。


氏の「世界資本主義の危機・没落が進行するとき、それは世界戦争に発展する可能性がある」(172頁)との指摘は、ドキっとするほど、世界の現状を言い当てているからである。


柄谷行人氏の「交換様式」「資本=ネーション=国家の構造」「世界システムの諸段階」を以下に記す。

  • A 互酬(贈与と返礼)     ネーション   ミニ世界システム
  • B 略取と再分配(支配と保護) 国家      世界=帝国
  • C 商品交換(貨幣と商品)   資本      世界=経済(近代世界システム
  • D    X             X      世界共和国


交換様式D=X=「世界共和国」というわけだ。


世界史的な流れを、近代以前の世界=帝国に対して、世界=経済の視点を導入し、帝国の構造と、亜周辺にある世界=経済が、近代化につながっていること、それらを<交換様式>から視るという方法で、世界史を捉え個別に言及されている。


とりわけ、世界資本主義の諸段階に、ヘゲモニー国家と、自由主義的、帝国主義的なる概念を対応させ、オランダ、英国、米国がヘゲモニー国家であったときは、世界は自由主義的であり、次の期間すなわちヘゲモニー国家不在の期間は、帝国主義的になっていることを、1700年代から現在までを当てはめると、米国がヘゲモニー国家から降りた現在は、世界は帝国主義的な状態であるという分析である。これはきわめて長期的な視点から見ることにある。


現在の帝国主義的状況は、経済政策は「親自由主義」、資本は「多国籍資本」、国家は「地域主義」、生産様式は「情報」に該当する、というヘゲモニー国家が無い事態を過去の事例、1870年ー1930年に反復的に示される。1990年以降が、1870−1930年の帝国主義時代を反復するとなれば、まさに第一次大戦の戦争の世紀が再び起きる可能性がある、ということだ。


A,B,Cを併せて揚棄したD、すなわち「世界共和国」システムを指向するほか、世界は救済されない。


実際、最近の世界の不穏な状況が至るところで、いつ戦争が始まっても不思議ではない事態にある。柄谷行人の交換様式による、カントの「世界共和国」志向は理想論だと、一蹴することは簡単だが、果たしてそれで良いのだろうか。


世界史の構造 (岩波現代文庫 文芸 323)

世界史の構造 (岩波現代文庫 文芸 323)



柄谷行人は既に、述べていた。

互酬原理にもとづく世界システム、すなわち世界共和国の実現は容易ではない。交換様式A・B・Cは執拗に存続する。・・・いかに生産力が発展しても、人間と人間の関係である交換様式に由来するそのような存在を完全に解消することはできない。だが、それらが存在するかぎりにおいて、交換様式Dもまた執拗に存在する。・・・(p465『世界史の構造』)


小生は、柄谷行人のこれまでの思惟過程から、「世界共和国」を信じたい。本書から導かれる思想は、漱石論から始まる柄谷行人の到達点であり、マルクスを交換様式で読むという発想は、21世紀の世界状況から視て、正しいと思いたい。


もちろん、思想は思想・哲学の問題であり、現実的なナショナリズムの高揚や、民族自決主義への回帰、キリスト教イスラム教の歴史的対立などを思うと「世界共和国」の実現は容易にありえないだろう。


現実には、戦争は終わらない、ナショナリズムは激化する、国と国との国境紛争は絶えない、宗教の違いによる争いは収まらない。だからこそ、国際連合揚棄した「世界共和国」の出現に向かうしか方途がないのだ。


世界共和国へ―資本=ネーション=国家を超えて (岩波新書)

世界共和国へ―資本=ネーション=国家を超えて (岩波新書)

「世界史の構造」を読む

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