「ボヴァリー夫人」論


蓮實重彦著『「ボヴァリー夫人」論』(筑摩書房,2014)。蓮實重彦氏は、30年くらい前から『ボヴァリー夫人論』出版の話をしてきたと記憶している。ついに集大成として出版された。


「ボヴァリー夫人」論 (単行本)

「ボヴァリー夫人」論 (単行本)


蓮實重彦の代表作は、何よりも『監督 小津安二郎』だろう。他にも膨大な映画批評本があるけれど、小津安二郎についての、フランスから日本への逆輸入的役割を果たしたのも、この人の功績だろう。


監督 小津安二郎 (ちくま学芸文庫)

監督 小津安二郎 (ちくま学芸文庫)


文学関係では、『夏目漱石論』がある。いずれもテクスト=表層としての映像、テクストとしての漱石を扱っている。


夏目漱石論 (講談社文芸文庫)

夏目漱石論 (講談社文芸文庫)


フローベールボヴァリー夫人』についても、テクスト的現実を、テクストにかかわるテクストとしての『「ボヴァリー夫人」論』になっている。先駆をなす『凡庸な芸術家の肖像―マクシム・デュ・カン論』は、いまだ未読状態である。



残るは『ジョン・フォード論』あるいは『監督 ジョン・フォード』のみとなった。これは期待したい。


さて、フローベール論ではなく、何故、『「ボヴァリー夫人」論』なのか。それは、「散文と歴史」のテクストを読むことで分かる仕掛けになっている。原作の翻訳(河出文庫版)は597頁、蓮實重彦の論稿は850頁。作品よりはるかに多い文章によって、『ボヴァリー夫人』のテクスト細部にわたり、分析される。はじまったばかりの「散文」は、「僕達は自習室にいた」というように「僕たち」で始まる。「僕たち」とは、話者の視点である。


ボヴァリー夫人 (河出文庫)

ボヴァリー夫人 (河出文庫)


ところで、映画化された『ボヴァリー夫人』は、5本ある。


ボヴァリー夫人 [DVD]

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もう一本は、翻案ものだが、ポルトガル映画の巨匠による映画。


これらの映画もテクストとしては、『ボヴァリー夫人』であるが、勿論、蓮實重彦は除外している。


作品中に「エンマ・ボヴァリー」と記録された箇所は、一つもないと、著者は指摘している。ボヴァリー夫人とは、まず、シャルルの母親であり、シャルルに医師免許を取得させ、年上の持参金が多い未亡人が第二の「ボヴァリー夫人」となる。シャルルにとって最初の妻には、新婚のときめきなど感じることはない。医師として開業したボヴァリー氏の寝室にまで、手紙を携えた使者が、ルオー氏の骨折治療を依頼する手紙を持ってきたのだった。その手紙の筆者は、娘のエンマであることを蓮實重彦は、「懇願と報酬」の章で解説している。


「署名と交通」では、手紙への署名と、手形への署名を対比しながら、手形へシャルルが署名し、ボヴァリー家の借財が始まった原因は、エンマではなく、夫シャルルにあったことを指摘している。


第一ボヴァリー夫人が、シャルルに期待したことは、薬剤師オメーの願望、「氏は最近レジオン・ドヌール勲章をもらった」という結末の文と照応している。


「小説と物語」では、同時に発する音声を文字で記録することはできない。交響楽を、言語化することができないのと、同じことだ。農業共進会のシークエンスでは、ポリフォニイ的状況を、フローベールはどのように言語化しているのか。言語は線上的にしか表現できない。


「華奢と頑丈」は、実に着原点が面白く、エンマの華奢な手足を巡って、シャルルの無頓着さとルドルフの視点の比較、更に、エンマの手が、農業共進会で表象される老農婦の頑丈な手に通じることの指摘など、読み応え十分である。


ここまで読み、主題論的あるいは説話論的なテクストにまつわる言葉の繋がりや関連性など延々と続く、「テクスト的現実」を繰りだされても、読む時間が確保できない。800頁を超える論稿は最後まで付き合わなくとも、細部への拘りは読者に伝わる。従って、第5章迄読み、一気に最終章へ進む。


一般的に『ボヴァリー夫人』は、リアリズム小説であるだの、エンマは小説からの影響で不倫に走り、借財を負って自殺する悲劇であるという解釈は、「テクスト的現実」から限りなく乖離している、ということを蓮實重彦はテクストに沿って、証明したのが、「ボヴァリー夫人」論』にほかならない。

「文学」がいまなお定義しそびれている「散文」の「長編小説」として書かれた『ボヴァリー夫人』は、「文学」にとって決定的な外部―「何も書かれていない書物」、等々、―ではなかろうが、だからといって、その決定的な内部―近代フランス小説を代表する「名作」、等々―だとも断定しかねるいかにも「確定しえぬもの」だからである。(p.719)


「文学」や「長編小説」あるいは「散文」を確定しえぬもの、との蓮實重彦の断言(迷い)が結論部に来ていることに読者は驚く。「確かに見えながらどこまでも不確かでしかない」(p.719)とつぶやかれてみれば、テクストの前に立ち尽くすしかあるまい。


テキスト的現実に即して分析すること、説話論的と主題論的というパターンを蓮實重彦は、これまでの映画評論や文芸評論においても、繰り返しこの表現を用いてきた。「説話論的」と「主題論的」の意味は、説明されない。蓮實重彦独特の文脈で使用されるから、ここを理解しないと、テクスト分析が落ち着く場所を理解できないことになる。


それにしても、膨大なる「テクストに関するテクスト」としての蓮實重彦『「ボヴァリー夫人」論』とは、著者の<戯れ>だったのか。しかも学術的論文を正確に引用した<戯れ>として、学術論文である「かのように」記述されている。読むことの面白さと、作品から得られる<喜び>や<充実>とは別のことである。本書を読む快楽と苦痛は、二律背反的であり、蓮實重彦的散文とは、常に読者に読むことを強いるテクストであるが、「テクストに関するテクスト」の解釈・批判をあらかじめ拒否している文体でもある。


本稿は、蓮實重彦著『「ボヴァリー夫人」論』を、「テクストに関するテクスト」として読み、その覚書を<「テクストに関するテクスト」に関するテクスト「のようなもの」>として、とりあえず記録しておくものとしたい。


反=日本語論 (ちくま学芸文庫)

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映像の詩学 (ちくま学芸文庫)

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映画の神話学 (ちくま学芸文庫)

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