早稲田文学

早稲田文学』第十次創刊号を入手した。篠山紀信撮り下ろしの川上未映子のグラビア写真が冒頭にあり。川上未映子『戦争花嫁』は、「戦争花嫁」という言葉を「意味のない言葉は人を傷つけない」用法として、言語的な限界に挑戦する不思議な作品だ。


早稲田文学1

早稲田文学1


蓮實重彦ロブ=グリエ追悼文「タキシードの男」は、市川崑監督撮影時に通訳としてロブ=グリエに付き合った経験が書かれていて、『去年マリエンバートで』のロブ=グリエが「笑劇」として存在していたことを知る。島田雅彦の埴谷論「ぷふいの虚体」は、脳内の妄想を言語化する試みとして、島田氏が現在連載している「徒然王子」に影響を与えている。


死霊 (1976年)

死霊 (1976年)


埴谷雄高の壮大な試みは、次の世代の作家に引き継がれていることを感じる講演記録となっている。


いま何やら話題となっている「小説は小説家にしかわからない」という言説、あるいは高橋源一郎の「有限の文字記号からなる形而下的なフィクションのテクスト」、また蓮實氏の「店晒しにされた厚顔無恥」としての「現代思想」。


蓮實重彦氏は「批評の断念/断念としての批評」で、「書評」について次のように語られる。

現代日本の優れた書評家というものをわたくしは不幸にしてひとりとして知りません。斎藤美奈子さんの短い文章は、多くの場合大層快適に読めますが、この方はわたくしが一時文学から撤退する以前からすでに批評家として活躍しておられましたので、書評家とは別のカテゴリーに入れるべきでしょう。(p.352『早稲田文学』第十次創刊号)


斎藤美奈子氏は、批評家でもありかつ「優れた書評家」でもあるといえる。


「データベース」が全ての基礎となるという安易な思考について、蓮實重彦氏の言い分は首肯できる。ここで言う「データベース」とは、蓮實氏がかかわった一本の映画のデジタル復元に要する時間と費用を踏まえての発言であり、実に説得的なのだ。

「データベース」の時代だということを言っているひとたちの安易な現状肯定にわたくしは与しません。データベースを口にするひとびとは、現実を見ていないからです。・・・(中略)・・・時間と金という要素を考慮するとのない「データベース」論は、抽象的な議論でしかありません。(p.340ー339)


最後に、小説の存在意義について

「いまなおわれわれにとって同時代であり続けている」時期に人類がかかえこんでしまった「有限の文字記号からなる形而下的なフィクションのテクスト」としての小説の散文性について、人類はいまだなにひとつ知らない。(p.338)


まさしく、蓮實重彦氏の「宙吊り」論の面目躍如たる言説になっている。斎藤美奈子氏の「書評」と、蓮實重彦氏の「批評」は、<断念としての批評>が根底にあることで、二人が担当した朝日「文芸時評」を共有することによる結びつきであるを指摘しておきたい。


「赤」の誘惑―フィクション論序説

「赤」の誘惑―フィクション論序説