漱石


三浦雅士漱石 母に愛されなかった子』(岩波新書、2008.4)読了。三浦雅士の前著『出生の秘密』(講談社、2005.08) のテーマの延長上で、対象を漱石に絞って考察した小冊子となっている。


漱石―母に愛されなかった子 (岩波新書)

漱石―母に愛されなかった子 (岩波新書)


近代文学で最も読者に読まれている作家は、漱石であろう。実際、「漱石論」の類は漱石の著作よりはるかに多いはずで、文芸評論家による「漱石論」は枚挙にいとまがない。しかしながら、漱石の教養の基礎を漢文からみるという方法は、新鮮である。三浦氏は、江戸時代の学問の伝統的系譜をたどりながら、漱石が中学を中退して漢学塾「二松学舎」に入塾したことにこだわる。


出生の秘密

出生の秘密


漢学と英文学が本質的に違うことは、漱石自ら『文学論』に書いている。漱石漢籍の素養があり、英文学とのあまりに大きな違いに、みずから「小説」を書くことで「文学」を作り出そうとする。


自分はどうしてこのように存在するのか。文学者や哲学者は今ある自分を原点として考える。漱石は考えはじめる自分はどこからきたのかを疑う。これは、三浦氏によれば、マルクス(社会)、ニーチェ(言語)、フロイト(無意識)の思考法に通じるという。


夢判断 上 (新潮文庫 フ 7-1)

夢判断 上 (新潮文庫 フ 7-1)


三浦雅士漱石の普遍性について、公的ー私的な分け方で次のように捉える。

政治や経済や社会は公的な問題であって、恋愛や結婚や家族は私的な問題であると一般には考えられているが、むしろ逆ではないか。公こそ私であって私こそ公なのではないかと考えさせる。たとえば人を革命へ、政治へ、戦争へと駆り立てるものは必ずしも公的な思想や理論ではない。往々にして私的な感情である。そしてその私的な感情にはしばしば幼年時代の屈辱的な体験などにさかのぼるわけだが、たいていはその背後に、屈折した母子関係や恋愛関係、それによってもたらされた心の癖が潜んでいる。(p.243)


私的な側面にこそ近代化のなかに普遍性をみることができる、その見本が漱石のテクストである、というわけだ。「公私の逆説」が人間にとって根源的なものであり、徂徠から漱石に至る道筋をこの「公私の逆説」から読もうという斬新な視点だ。

なぜなら母のない子は存在しないからです。誰もが母から生まれるのである。そして、愛は感情として自明でありながら、それを他者に完璧に納得させることはほとんど不可能だからである。(p.244)


<母に愛されなかった子>という独自の視点が根源的なものであり、漱石幼年時代ー少年時代に原点をおいて作品解読の鍵とする。


漱石の母が、老いてできたわが子を恥かき子と思っていたらしいこと、養子に出され帰ってきても嫌われたと思い込んでいたことつまり「屈折した母子関係」である。すべての作品を、母の愛からみることの意味。なるほど、視点を定めることで理解が進むのは確かだ。


それから (新潮文庫)

それから (新潮文庫)


いま『それから』を読み直している、『漱石全集』の第六巻だ。旧字・旧かなづかいで漱石の筆致が伝わってくる。三浦氏は、漱石の小説の引用もすべて地の文に混在させており、文体の持つ意味がそがれている。


原典こそ読むべし、と考えさせられた、という意味では内容が深く、近代化の根底にある私的感情の世界を原典につくことで読み直せと主張しているように聞こえる。


漱石を読んで驚くほかないのは、謎の探求のその徹底性です。」と三浦氏も言う。漱石を再読すべき時期がきている。なぜなら、私にとってのベストとしていた『草枕』は、漢詩の世界にとどまる非人情であり、


草枕 (新潮文庫)

草枕 (新潮文庫)

母の変容ともいうべき那美、藤尾、美彌子、美千代、お米、千代子、お直、そしてお住といった女性たちの、もはや虚構とは言えないほどに生々しい犠牲が必要とされたのです。(p.239)


となり、『草枕』の那美さんから、『道草』のお住を経て、『明暗』のお延に至る女性たちの受難。


道草 (岩波文庫)

道草 (岩波文庫)


このようにみれば、前期・後期三部作を経た『道草』が、やはり完成度が高いということになるのだう。しかし、作品の評価は常に相対的であることを、読者の数だけ解釈があることを前提とすべきであろう。


世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド

世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド


謎解きといえば、村上春樹の小説を連想する。漱石は、当時の新聞小説として多くの読者を獲得したように、村上春樹も謎を散りばめながら多くの読者を獲得しているではないか。


レキシントンの幽霊 (文春文庫)

レキシントンの幽霊 (文春文庫)