それから


漱石の『それから』を岩波版全集第六巻にて読む。文庫本で読んだのは数十年前であり、森田芳光監督の映画化作品が印象強く残っている。森田作品は、1985年つまり20年以上も前の映画であった。代助を松田優作が、三千代を藤谷美和子が、平岡を小林薫が演じており、意外や代助の父は笠智衆だった。


それから [DVD]

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映画の印象が強く残っているが、今回あらためて原作を読み直してみて気づいた点は、主人公代助の「文明批評」的で高等な態度から、平岡との再会により、彼の妻となった三千代との邂逅が、過去を突然「想起」させることである。ラストの唐突な狂気的「赤」の氾濫で終わる小説だが、長井代助の思考法はきわめて論理的であり、作者・漱石の文明批判的思惟が込められていると思われる。


それから (岩波文庫)

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友人・平岡との距離のとり方や、父・長井得、兄・誠吾と嫂・梅子たち家族との関係に一種、覚めたシニカルな態度を示す。


漱石に言及する場合、ひとつの作品のみを対象としてとりあげるとどうしてもテクスト論になってしまう。それぞれの作品に内的関係があるから、絶えず他の作品を参照しながら、漱石を語ることが要請される。かつて漱石の代表作を通読した者にとって、作品そのものより「漱石論」の方が面白いという倒錯した関心を一貫させながら、<漱石>への関心は持続した。

私が読んできた「漱石論」を思いつくまま挙げてみる。


決定版 夏目漱石 (新潮文庫)

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『こころ』大人になれなかった先生 (理想の教室)

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夏目漱石を読む

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NIIのWebcatPlusで検索すると、書名に「漱石」が含まれる本がなんと1,474件あった。NDL-OPACで検索すると全集ものを排除しても1,576件の本がヒットする。それだけ、本になっている「漱石論」は多いということで、論文を含めると汗牛十棟ただならぬほどだろう。ちなみ「鴎外」を、NIIのWebcatPlusで同様に検索すると、743件つまり半分であり漱石と鴎外の人気の差異が伺える。


膨大な「漱石論」に何事か付加する意図などない。ただ、故あって『それから』を再読する機会があり、小説の構成的中核としての代助=三千代の関係が希薄な印象を受けた。「半意識」と漱石が表現するように無意識の中に封印してきた代助の三千代への思いが強いほど、説得力を欠くように思えてくる。第一、三千代の内面が視えない。代助の「ことば」を触媒として三千代が反応するわけだが、大岡昇平がいうところの「姦通文学」としての記号を帯びるための装置、以上でも以下でもない。


にもかかわらず、『それから』が近代文学のなかでも常に読み続けられているのは大作家「漱石」の作品ということだけではない。作品の後半部の突然の「赤」の炎上とでもいうべき代助の行動によるものであろうか。いわば「不安」を残して、いや余韻を残して作品が結末を迎えるからだろうか。

漱石的「存在」とは、みずから睡眠と死の姿勢を模倣しつつ精神と肉体の活動を抑制することで、かけがいのない人物を招きよせ、言葉の発生を誘発するという逆説的な機能を演じながら、はじめて物語に介入しうる作中人物のことなのだ。(p.47『夏目漱石論』)


これは文体から蓮實重彦であるとすぐに分かるような引用だが、『それから』についても<赤>と<青>をめぐって次のように指摘する。

『それから』は「代助は自分の頭が焼け尽きる迄電車に乗って行かうと決心した」の一行で終わっているが、それはいうまでもなく、三千代の不意の訪問のさきだつ午睡の折の、「あまりに溌剌たる宇宙の刺激に堪へなくなった頭を、出来るならば、蒼い色の付いた、深い水の中に沈めたい位に思った」と対応しあっている。赤さに囲繞されて焦げんばかりに熱を帯びる頭と。青い深さに浸りきって冷えてゆく頭。『それから』とは、赤さと青さの葛藤に耐えんとする一つの頭脳の物語である。(p.172『夏目漱石論』)


「赤」の誘惑―フィクション論序説

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ラストの「赤」のイメージの氾濫は、静謐な青と一対となっていたわけだ。『それから』における「赤と青」の葛藤という主題、きわめてユニークな蓮實的言説だが不思議と説得的でもある。


一般的には、「漱石論」を読み、漱石の作品を再読するというのは読者冥利に尽きることだ。当然、このあと、『門』『彼岸過迄』『行人』『こころ』『道草』『明暗』と再読して行くことになる。漱石について書くとどうしても凡庸かつ紋切り型にならざるを得ないのも、国民的作家漱石の大きさゆえだろう。「漱石神話」にとらわれることなくひたすら、漱石を半意識的に読むこと。


三四郎 (岩波文庫)

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門 (岩波文庫)

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こころ (岩波文庫)

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行人 (岩波文庫)

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道草 (岩波文庫)

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