こころ、先生の遺書


夏目漱石が、東京朝日と大阪朝日に100年前、1914年に新聞連載した「こころ、先生の遺書」が、朝日新聞に再掲載され、百十回を迎えた。しかし、この連載内容は、復刻を装っているけれど、本文は現在、岩波文庫で刊行されている本文から、転載している。


こころ (岩波文庫)

こころ (岩波文庫)


百年前のまま掲載するとすれば、玉井敬之[ほか]編『夏目漱石集「心」』(和泉書院,1991)から、旧かなづかいを、新かなづかいに変更して掲載しなければ、本来の意味での再掲載とは言えないであろう。


夏目漱石集―心 (近代文学初出復刻)

夏目漱石集―心 (近代文学初出復刻)


むろん、そのことを踏まえた上で、漱石『こころ』が岩波文庫新潮文庫など、各種文庫でトップを争うほど売れていることを思えば、テクストの細部の相違など、読者にとってそれほど問題ではないということであろうか。


こころ (新潮文庫)

こころ (新潮文庫)

こゝろ (角川文庫)

こゝろ (角川文庫)


朝日新聞は、10月から『三四郎』を再掲載すると告知している。この場合も、連載の形式は復元していても、本文は、岩波文庫からの転載であろうことは予測がつく。実際、10月1日から再連載が開始されたたが、岩波文庫版がもとになっていた。


三四郎 (岩波文庫)

三四郎 (岩波文庫)



漱石『こころ 先生の遺書』を新聞連載にて再読したが、あらためて思うことは、実に不思議な小説であるという実感を得たことから、少し考えてみたい。


まず、漱石作品はすべて、未完の作品であるという印象から触れて行きたい。文字通り『明暗』は未完で終わった。
『道草』は、

「世の中に片付くなんてものは殆ほとんどありゃしない。一遍起った事は何時までも続くのさ。ただ色々な形に変るから他ひとにも自分にも解らなくなるだけの事さ」

と終わりではないことを健三は妻につぶやくところで、とりあえず終わりになっている。

後期三部作『彼岸過迄』『行人』『こころ』は、「松本の話」、「塵労」「先生の遺書」と告白あるいは手紙で終えている。前期三部作『三四郎』『それから』『門』は、ひとつながりの作品として、前の作品のその後を描いている。そして『門』の最後でお米の言葉に対して、宗助はすぐに冬がくることを、

「本当にありがたいわね。ようやくの事春になって」と云って、晴れ晴れしい眉まゆを張った。宗助は縁に出て長く延びた爪を剪きりながら、「うん、しかしまたじき冬になるよ」と答えて、下を向いたまま鋏はさみを動かしていた。


と季節の循環でとりあえず終えていることでも、未完である。


さて、『こころ』は単行本化されたとき、全体を三部構成にし、「先生と私」「両親と私」「先生の遺書」となった。この手記の書き手は、私であり、時間軸でみれば、先生の死後、先生との出会いから回想して書かれている。
冒頭に

私は其人の記憶を呼び起こすごとに、すぐ「先生」と云ひたくなる。筆を執っても心持は同じ事である。余所々々しい頭文字抔はとても使ふ気にならない。

と私は記録している。先生の名前は最後まで不明であるが、御嬢さん=奥さんは「静」と呼ばれている。「先生」の友人は「K」というローマ字の頭文字で記されている。先生が書いた遺書も、「私」が手記として書き写していることになる。


先生の遺書とは、「私」が受け取った膨大な量の書簡だが、「こころ」というタイトルを付しているけれど、先生は遺書の中で、御嬢さんへの恋が、Kの告白によって確信したこと、Kを抜け駆けして御嬢さんとの結婚を決めたこと、つまりKへの裏切りのこと、更に、Kの自殺は理由が明確に書かれていないこと等々。


最後の、先生は明治の終焉とともに、「明治の精神」を自殺の根拠として告知していることなど。これらについて、あたかも先生の「こころ」が告白されているかのような錯覚に陥るが、実際に読むと先生の<内面=こころ>が必ずしも全て告白されているとは限らない。


「明治の精神」を根拠に、Kへの贖罪として、いわばKに殉じるという自殺のかたちをとっている。しかし、本当に先生が自殺しているかどうかは、手記を書いている「私」の確認が記録されていない。

「私は私の過去を善悪ともに他の参考に供するつもりです。しかし妻だけはたった一人の例外だと承知して下さい。私は妻には何にも知らせたくないのです。妻が己の過去に対してもつ記憶を、なるべく純白に保存しておいてやりたいのが私の唯一の希望なのですから、私が死んだ後あとでも、妻が生きている以上は、あなた限りに打ち明けられた私の秘密として、すべてを腹の中にしまっておいて下さい。」


と結ばれている。「私は私の過去を善悪ともに他の参考に供する。しかし妻だけはたった一人の例外だと承知して下さい。私は妻には何にも知らせたくないのです。」「あなた限りに打ち明けられた私の秘密」と、私に託された手紙を、手記として「私」は記録している。これをどう解釈すべきか。「私」は、「私」の手記の中に「先生の遺書」を書き写して最後に置いた。三部構成の「上」「中」は、少なくとも発表することを想定している文章である。

「先生の遺書」は、手記を読むかぎり、先生から「私」宛てに送付された手紙である。その手紙を手記の最後に置き、唐突に終わるということの意味を考えるべきだろう。

この手記の書き手である「私」の文章は、「両親と私」の最後の文章で終わっている。付け加えれば、「私」の手記の時間は、「私」が故郷で「先生」の手紙を受け取り、家族を残して汽車に乗るところが、一番新しい時間である。

私はまた病室を退いて自分の部屋に帰った。そこで時計を見ながら、汽車の発着表を調べた。私は突然立って帯を締め直して、袂の中へ先生の手紙を投げ込んだ。それから勝手口から表へ出た。私は夢中で医者の家へ馳かけ込んだ。私は医者から父がもう二、三日保もつだろうか、そこのところを判然聞こうとした。注射でも何でもして、保たしてくれと頼もうとした。医者は生憎留守であった。私には凝として彼の帰るのを待ち受ける時間がなかった。心の落付もなかった。私はすぐ俥を停車場ステーションへ急がせた。私は停車場の壁へ紙片を宛がって、その上から鉛筆で母と兄あてで手紙を書いた。手紙はごく簡単なものであったが、断らないで走るよりまだ増しだろうと思って、それを急いで宅へ届けるように車夫に頼んだ。そうして思い切った勢で東京行きの汽車に飛び乗ってしまった。私はごうごう鳴る三等列車の中で、また袂から先生の手紙を出して、ようやく始めからしまいまで眼を通した。


「先生の遺書」と題される下は、先生の手記である手紙のみで構成されている。遺書のなかで書き手の先生は、「私」という一人称を用いている。この「私」と、「こころ」の書き手である「私」の相似関係が指摘される。


「先生と私」の(三)で、「私」は先生への既視感を覚えたことを云わば伏線的に示唆している。

私は最後に先生に向かって、どこかで先生を見たように思うけれども、どうしても思い出せないといった。若い私はその時暗に相手も私と同じような感じを持っていはしまいかと疑った。そうして腹の中で先生の返事を予期してかかった。ところが先生はしばらく沈吟したあとで、「どうも君の顔には見覚みおぼえがありませんね。人違いじゃないですか」といったので私は変に一種の失望を感じた。


と「私」は記している。「私」が先生に会ったような記憶を持つこと、それは何を意味しているのだろうか。先生は、「私」の事後的な姿である、のかも知れない。記憶はどこから来ているのか。


いずれにしても、あまりにも謎の多い作品であることは確かだ。唐突な終わりは、「先生の遺書」以後を、空白としてることである。「私」は、先生の人生を反復する可能性がある。


とここまで、勝手な個人的感想を綴ってきたが、「こころ」についての研究文献数は、漱石作品の中でも他の作品を圧倒している。以下に、手持ちの「心」論を、列挙してみる。


1.仲秀和著『『こゝろ研究史』(和泉書院,2007)
 二部構成で、第一部は、研究史であり、問題の所在から始め、最初は全般的な研究史、次いで、時代区分による研究状況が、解説される。第二部は、1914(大正3)年から、2006(平成18)年までの、文献目録になっている。


『こゝろ』研究史

『こゝろ』研究史


2.石原千秋編『『こころ』をどう読むか』(河出書房新社,2014)
  本書は、朝日新聞の再連載に併せて、刊行されたもの。


夏目漱石『こころ』をどう読むか: 文芸の本棚

夏目漱石『こころ』をどう読むか: 文芸の本棚



3.猪熊雄治編『夏目漱石『こころ』作品論集』(クレス出版,2001)
 膨大な論文から、桶谷秀昭、松澤和宏、小森陽一など、18論文を収録している。


夏目漱石『こころ』作品論集 (近代文学作品論集成 (3))

夏目漱石『こころ』作品論集 (近代文学作品論集成 (3))


4.小森陽一石原千秋編『漱石研究・第6号 こゝろ』(翰林書房,1996)
 蓮實重彦を囲んでの鼎談、「『こころ』論争以後」につての座談会を中心に構成されている。


5.玉井敬之・藤井淑貞編『漱石作品論集成第10巻・こゝろ』(桜楓社,1991)
   同じ編者による、『漱石作品論集成』全12巻、別巻の13冊本の一つであり、27論文が収録され、巻末に、編者と朝野洋による鼎談が付されている。丸谷才一荒正人大岡昇平江藤淳山崎正和由良君美石原千秋小森陽一三好行雄など多彩で、代表的な論稿を読むことができる。


  

研究史』の著者、仲秀和氏は「『こゝろ』についてはある程度論じつくされている」(5頁)と述べているが、それでも、新たな『こゝろ』の評価論文を期待しているから、研究史・目録を、時間と労力を割いて書かれていることでもわかる。


拙ブログで触れた、『こころ 先生の遺書』は、既に誰かが、論じているような内容であるはずだ。ことほどさように、『こころ』は100年後の現在も、読む者を惹きつける何かを持っているわけだ。『こころ』は、誰もが一度は論じてみたいと思わせる謎に満ちた作品であり続けている。


漱石文学全注釈〈12〉心

漱石文学全注釈〈12〉心

『こころ』大人になれなかった先生 (理想の教室)

『こころ』大人になれなかった先生 (理想の教室)


【補足】(2014年10月5日)
もうひとつの疑問
「私」が先生の奥さんと会話する、「先生と私」(19)に以下のような会話がある。

奥さんは何とも答えなかった。しばらくしてからこういった。
「実は私すこし思いあたる事があるんですけれども……」
「先生がああいう風になった源因についてですか」
「ええ。もしそれが源因だとすれば、私の責任だけはなくなるんだから、それだけでも私大変楽になれるんですが、……」
「どんな事ですか」
 奥さんはいい渋って膝の上に置いた自分の手を眺めていた。
「あなた判断して下すって。いうから」
「私にできる判断ならやります」
「みんなはいえないのよ。みんないうと叱られるから。叱られないところだけよ」

この文章からみれば、奥さんは、Kと先生の事件をすべて知っていたのではないか、と云う疑問が残る。

もう一箇所、同じ「先生と私」(19)から。

奥さんは私の耳に私語くような小さな声で、「実は変死したんです」といった。
それは「どうして」と聞き返さずにはいられないようないい方であった。
「それっ切りしかいえないのよ。けれどもその事があってから後なんです。
先生の性質が段々変って来たのは。なぜその方が死んだのか、私には解らないの。
先生にもおそらく解っていないでしょう。けれどもそれから先生が変って来たと思えば、そう思われない事もないのよ」


この文章の中で、奥さんは夫のことを、「私」が呼称する「先生」と、同じように夫を、三回も「先生」と呼称していることである。

奥さんにとって、無職の夫にしか過ぎない元の下宿生を「先生」と呼ぶ習慣はない。

「先生」とは、手記を書いている「私」にとっての「先生」であり、奥さんにとって「先生」ではあり得ない。これも疑問の一つである。