祖父江慎デザイン「心」
祖父江慎デザインによる、漱石自筆原稿に基づく『こころ』(岩波書店,2014)が刊行された。漱石の『こころ』のテキストは、多数存在するが、岩波全集最新版は、自筆原稿に基づくと謳っているけれど、原稿に完璧に近いテキストが、ここに誕生した。
- 作者: 夏目漱石
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2014/11/27
- メディア: 単行本
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底本は、夏目漱石による自筆原稿とし、誤記か意図的な表記か判別しづらいものだけでなく、明らかな誤記もそのままとした。また、ふりがなについては手書き原稿に記載されたもののみを原稿どおりに記載した。
と著者および編集部はあとがきに記している。
デザインの良さは、函・表紙・序などにも、祖父江氏の工夫が随所に見られる。「ほぼ原稿そそまま版」と帯に掲載されたとおり、これまで刊行された『心(こころ)』のどのテクストより、自筆原稿に近いものとなった。
では、漱石『心(こころ)』は、異なるテクストがどのように配置されるのか、以下に列挙してみたい。
・朝日新聞連載をそのまま復刻し、解説や註を加えたもの
玉井敬之[ほか]編『夏目漱石集―心 (近代文学初出復刻) 』(和泉書院,1992)
山下浩編『漱石新聞小説復刻全集 第8巻 先生の遺書:「こゝろ」原題』(ゆまに書房,1999)
・初版にもとづき注釈を記載したもの
- 作者: 藤井淑禎
- 出版社/メーカー: 若草書房
- 発売日: 2000/06
- メディア: 単行本
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・初版本の復刻版
漱石『初版本復刻版 こゝろ (岩波文芸書初版本復刻シリーズ)』(岩波書店,2014)
・岩波全集版
・岩波全集版菊判(解説:小宮豐隆)
・荒正人編集の集英社版「漱石文学全集」
伊藤整・荒正人編『漱石文学全集第六巻 彼岸過迄 ; こゝろ』(集英社,1983)
- 作者: 夏目漱石,伊藤整,荒正人
- 出版社/メーカー: 集英社
- 発売日: 1983/01
- メディア: 単行本
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以上をまとめると、
自筆原稿版→新聞連載版→初版復刻版→岩波全集版(菊判)→集英社全集版→岩波全集版(最新版)
となるが、基本的な流れは、「自筆原稿」⇒新聞連載⇒初版本⇒岩波全集版(菊判と最新版)となり、岩波書店の最新版は、漱石の自筆原稿に依拠していると明記されているが、編者の意図・判断が介入している。
文庫本では、岩波文庫は、全集版を基にしているが、他の文庫本の底本は出版社により異なる。
- 作者: 夏目漱石
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2004/03
- メディア: 文庫
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- 作者: 夏目漱石
- 出版社/メーカー: 集英社
- 発売日: 1991/02/25
- メディア: 文庫
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一般的には新潮文庫が売上数No.1であり、標準かも知れない。無料で公開されている青空文庫の底本は、集英社文庫になっている。『こころ』以外でも、基本的に青空文庫は岩波書店以外の文庫を底本としているようだ。
テクストクリティクに関して、山下浩氏は初出を重視する。それは最初の読者に向けて原稿は書かれている、という見解である。原稿か初出か初版か、によってテクストは異なるからだ。
- 作者: 夏目金之助
- 出版社/メーカー: ゆまに書房
- 発売日: 1999/10
- メディア: 大型本
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さて、このような様々なテクストが存在する中で、敢えて、自筆原稿そのままに拘った祖父江氏の意図はどこにあるのだろうか。
自筆原稿をテクストとするのであれば、原稿そのものに忠実に復元することであると考えているようだ。作家が表現しようとした意図に沿うということであろう。しかし、テクスト問題としてみると、いくつかの断層も視えてきた。
たしかに、テクストの定本化は必要であろう。欧米文学における文献学はテクスト批判を超えて、全集の発行時点で、テクスト確定が進捗している。一方でそうのような流れがあることを押さえておこう。
しかしながら、祖父江氏の試みは、ある意味ではテクスト問題に新たな提言をしている。作者はいかに完璧を目指しても、誤字・脱字は残るということ、テクストに反映させ、読者にゆだねようという意図であろう。
とりわけ、漱石は、語彙の使い分けや独特な用語を、意図的あるいは無意識に使用している。なぜその言葉を使用しているのかを読者が判断する材料として、今回の祖父江版を上梓したと解すべきだ。きわめて斬新な手法と高く評価したい。
それに関連して、今野真二『辞書からみた日本語の歴史』(筑摩書房,2014)では、日本語の「自由度」について次のように記している。
- 作者: 今野真二
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 2014/10/06
- メディア: 単行本
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辞書が「鑑」であるという「心性」はごく最近のものでるといえよう。・・・(中略)・・・言語に関して、あまり「自由度」を許容しなくなった、ここ100年間のことと考える。ある語をこうも書くし、こうも書くという時代においては、「鑑」という概念そのものが成立しない。(p187)
いまや電子メディア中心になりつつあるテクストの世界に、モノとしての書物への愛を喚起させる効果を出したのが、祖父江版である。書物としての祖父江版『こころ』を楽しみたい。
祖父江氏の漱石への傾斜ぶりは、『坊っちゃん文字組100年』において、詳細なる『坊っちゃん』諸版の変遷について、逐次追いかけているのは、周知のとおりであろう。
今回の祖父江版『こころ』は、ブックデザインのオリジナルとして漱石作品を上梓したところにあるが、テクスト問題に、漱石が生きた時代の言語の「心性」を大切にすることを想起させた。