今夜はひとりぼっちかい?日本文学盛衰史戦後文学篇


日本文学盛衰史 (講談社文庫)

日本文学盛衰史 (講談社文庫)


高橋源一郎著『今夜はひとりぼっちかい?‐日本文学盛衰史戦後文学篇』(講談社,2018)は、十数年前の『日本文学盛衰史』(講談社,2001)の続編である。「戦後文学篇」の副題がある。


全身小説家 [DVD]

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まず冒頭、映画・原一男監督『全身小説家』を学生に見せている。全身小説家とは、埴谷雄高井上光晴命名したのだが、ここで取り上げられる、戦後派作家及び周辺の批評家の名前が、カタカナで記述される。タケダ・タイジュンのように。

それを漢字に直すと、武田泰淳野間宏島尾敏雄安岡章太郎、中川与一、宇野浩二尾崎一雄小林秀雄原民喜勝本清一郎三好達治唐木順三丸山眞男倉田百三本多秋五、桑原武男、佐多稲子平野謙椎名麟三徳田秋声、白井浩司、瀧口修造石川達三竹内好梅崎春生田村泰次郎中島敦保田與重郎中野重治、安部昭、中村光夫山本有三亀井勝一郎、蓮田善明、杉浦民平、高見順花田清輝羽仁五郎、嘉村磯多、安部公房林房雄福田恒存、石坂洋二郎、藤枝静男石川淳堀口大學牧野信一織田作之助伊藤整武者小路実篤室生犀星檀一雄小田切秀雄上林暁森有正吉田健一竹山道雄、田中秀光、米川正夫渡辺一夫中村真一郎福永武彦、田宮寅彦、八木義徳大岡昇平磯田光一河上徹太郎堀田善衛長谷川四郎・・・

戦後文学というより、戦前から生き残った文学者たち、評論家たちの、高橋源一郎の記憶にあるままお経のように唱えた名前である。

荒正人遠藤周作三島由紀夫清岡卓行寺田透、秋山駿、吉行淳之介、山川芳夫、中野好夫坂口安吾川崎長太郎桶谷秀昭村上一郎などを付け加えてもいいと思うが。他にも忘れているかも知れない。

「文学なんてもうありませんよ」

ロックンロール内田裕也、パンク、映画『SRサイタマののラッパー』から、石坂洋二郎の作品まで、ツイッター上で、ブンガクを語る。

ブンガクとは皆で読む場であった。みんなが参加して盛り上がる文脈=場があった。

3.11を「戦災に遇う」と表現するタカハシさん。

エピローグは、「なんでも政治的に受けとればいいというわけではない」と題され、以下の終焉を迎える。

福島第一原発の正門

正門まで10メートル。我々は立ち止った。「機械」をセットしたのは相棒だった。あちらからもこちらからも警官がやってきた。我々は正門を背に「機械」に向かって手をあげ、こういった。
「はい、笑って」
「おかしくないんだから笑えないんだけど」
「こうって、『いつかなりたいお金持ち〜!』」
「いやだね」
「じゃあピース?」
 カシャッー


これって近代文学の終わり、かな。そういえば、柄谷行人は『近代文学の終わり』(インスプリクト、2005)で言及していた。


近代文学の終り―柄谷行人の現在

近代文学の終り―柄谷行人の現在


近代文学は、鴎外、漱石に始まり、荷風芥川龍之介太宰治等を経て現代文学村上春樹に至る。そのあたりが教科書的・一般的認識であり、戦後文学について触れるひとが居なくなっている。

ツイッターやインスタなどのSNSメディアが、皆でかかわる場であり文脈となってしまった。ことの是非はさておき、喪失、あるいは忘却されることは歴史の必然だろうか。


漱石関連本について


長谷川郁夫著『編集者漱石』(新潮社,2018)は、「編集」をキーワードにしているが、漱石本が多い中で久々の本格的・重厚な評伝となっている。本文二段組、354頁は読みがいがある。編集者・子規との関わりから叙述される。著者は小沢書店経営者として著名。


編集者 漱石

編集者 漱石


序文にて、「私がみるところ、日本の近代文学において最初の、そして最高の文学者=編集者は夏目漱石である」と宣言している。現在読書中であり、中島国彦漱石の地図帳』(大修館書店,2018)および山本芳明漱石の家計簿』(教育評論社,2018)と併せて覚書をUPしたい。


漱石の地図帳―歩く・見る・読む

漱石の地図帳―歩く・見る・読む


それにしても、いまなお漱石本が多いということは、戦後文学は読まれていないことの間接的証明だろうか。