世界共和国へ


柄谷行人『世界共和国へ−資本=ネーション=国家を超えて』(岩波新書)読了。著者によれば、『トランスクリティーク』およびその続編を、専門的ではなく、「普通の読者が読んで理解できるようなものにしたい」と新書のかたちに書き下ろしたそうだ。


世界共和国へ―資本=ネーション=国家を超えて (岩波新書)

世界共和国へ―資本=ネーション=国家を超えて (岩波新書)


国家の四つの形態(p.5)から、A「国家社会主義」(共産主義)B「福祉国家資本主義」(社会民主主義)C「リベラリズム」(新自由主義)D「リバタリアン社会主義」(アソシエーショニズム)。柄谷氏は、D「アソシエーショニズム」を提唱する。


交換形式、世界帝国、世界経済、世界共和国の各章には、普通の読者を対象にしているといっても、引用される文献は、マルクス資本論』、ベネディクト・アンダーソン『想像の共同体』、ホッブス『レヴァイアサン』、ヘーゲル『法権利の哲学』、マツクス・ウェーバー『支配の社会学』、アダム・スミス『道徳情操論』、ネグリ&ハート『帝国』、そしてカント『永遠平和のために』・・・等々。



「国家の自立性は、それが他の国家に対して存在するという位相においてのみ見いだされる。その意味で、国家の自立性を端的に示すのは、軍・官僚機構という実体です。」(p.121)、「私は、国家は他の国家に対して国家なのだということを強調してきました。国家をその内部からだけ見ることは、まちがいである、と」(p.194)


互酬、略取−再分配、商品交換、貨幣などに言及しながら、柄谷氏は「アソシエーショニズム」から諸国家の揚棄を、カントの「世界共和国」へ収斂させて行く。


永遠平和のために (岩波文庫)

永遠平和のために (岩波文庫)

彼(カント)の理念は窮極的に、各国が主権を放棄することによって形成される世界共和国にあります。それ以外に、国家間の自然状態(敵対状態)が解消されることはありえないし、したがって、それ以外に国家が揚棄されることはありえません。一国の中だけで、国家を揚棄するということは不可能です。(p.222)

とカントの『永遠平和のために』から、結論を導くことになる。人類が解決しなければならない課題として、戦争、環境破壊、経済的格差をあげ、「国家と資本の問題に帰着し」、「国家と資本」を統御しなければならないという。

内部から否定していくだけでは、国家を揚棄することはできない。国家は他の国家に対して存在するからです。われわれに可能なのは、各国で軍事的主権を徐々に国際連合に譲渡するように働きかけ、それによって国際連合を強化・再編成するということです。たとえば、日本の憲法第九条における戦争放棄とは、軍事的主権を国際連合に譲渡するものです。各国でこのように主権の放棄がなされる以外に諸国家を揚棄する方法はありません。
各国における「下から」の運動は、諸国家を「上から」封じこめることによってのみ、分断をまぬかれます。「下から」と「上から」の運動の連係によって、新たな交換様式にもとづくグローバル・コミュニティ(アソシエーション)が徐々に実現される。もちろん、その実現は容易ではないが、けっして絶望的ではありません。少なくとも、その道筋だけはっきりしているからです。(p.225)


以上が結論だとすれば、そこに至る詳細なる分析や、引用は知識の羅列にほかならないのではないか。きわめて、常識的かつ平凡な結論、そんなものを柄谷行人に期待していなかった。

80年代のポストモダンについて、*1

現実に1980年以後、世界資本主義の中心でポストモダンな知識人が嘲笑している間に、周辺部や底辺部では宗教的原理主義が広がった。(p.184)


と記述しているではないか。いま、現実の問題として、「宗教的原理主義」とどう向きあうのか。柄谷行人のあまりにも楽観的な結論に唖然とした、というのが率直な感想だ。これでは、『トランスクリティーク』の続編に期待できないではないか。カントとマルクスから導かれる結論が、本当にこれでいいのだろうか。


定本 柄谷行人集〈3〉トランスクリティーク―カントとマルクス

定本 柄谷行人集〈3〉トランスクリティーク―カントとマルクス

*1:まさしく柄谷行人氏こそ80年代ポストモダンを先頭に立って牽引したのではなかったのか、という思いがするのは私だけだろうか。