柄谷行人政治を語る


柄谷行人政治を語る』(図書新聞、2009)を一気に読了した。同時期に、宮台真司『日本の難点』(幻冬舎、2009)を読む。日本の思想・文学を先導してきた柄谷行人が「政治」について語ることばを読むと、世界史的視点で「政治」を語る柄谷の姿勢に、なぜ『世界共和国へ』(岩波新書、2006)が書かれたのかがいまになって分かってきた。



拙ブログ「2006-4-30」の項で『世界共和国へ』を批判的にとりあげたが、NAMの解散に納得ができなかったからで、『柄谷行人政治を語る』を読むことによって、その疑問は氷解した。この不透明な時代に希望をどこに見出すかを考えると、柄谷氏の示す方向性にいまは賛同したい。


世界共和国へ―資本=ネーション=国家を超えて (岩波新書)

世界共和国へ―資本=ネーション=国家を超えて (岩波新書)


79頁の「図1 基礎的な交換様式(イ)とその歴史的派生形態(ロ、ハ)と114頁の「図3 近代世界システムの歴史的段階」の意味がより深く実態を反映していることが、金融危機以後きわめて明確になってきたからだ。


2008年のアメリカ発の金融危機世界恐慌が、柄谷行人が志向する「世界共和国」の重要さを露呈させたことになる。状況をみる視点の深さとでもいうべきか。

丸山眞男のいう「中間勢力」に触れて柄谷氏は次のように述べる。

丸山眞男は、個別社会という言葉を使いませんが、それと同じものを、モンテスキューから借りて、中間勢力と呼んでいます。・・・(中略)・・・彼(丸山眞男)は、西洋において「学問の自由」という伝統をつくったのは、進歩派ではなく、古い勢力、中間勢力だといっています。つまり、国家が教育の権利を握ることに教会が抵抗したことから、学問の自由が成立した。・・・(中略)・・・丸山眞男は、日本の近代化の速さの秘密は、封建的=身分的中間勢力の抵抗がもろいところにある、というのです。いいかえれば、中間勢力が弱いところでは、個人も弱いのです。1990年代に、日本のなかから中間勢力・中間団体が消滅しました。国労創価学会部落解放同盟・・・。教授会自治をもった大学もそうですね。このような中間勢力はどのようにしてつぶされたか。メディアのキャンペーンで一斉に批難されたのです。封建的で、不合理、非効率的だ、これでは海外との競争に勝てない、と。(p.148−149)


更に踏み込んで、柄谷氏は日本の中間勢力を分析する。

日本で中間勢力がほぼ消滅したのが2000年です。そこに小泉政権が出てきたわけです。もう敵はいない。彼は中間勢力の残党を「守旧勢力」と呼んで一掃したわけです。モンテスキューが、中間勢力がない世界は専制国家になるといったことを述べましたが、その意味で、日本は専制社会になったと思います。いかなる意味でそうなのか。その一つの例が、日本にはデモがないということです。・・・(中略)・・・主権者である国民は、どこにいるのか。代議制において、国民は、いわば「支持率」というかたちでしか存在しません。それは、統計学的に処理される「幽霊」的存在である。・・・(中略)・・・代議制が貴族政だということは、今日、かえって露骨に示されています。たとえば、日本の政治家の有力者は、二世、三世、あるいは四世です。彼らは、各地方の殿様のようなものだ。・・・(中略)・・・現在の日本は、国家官僚と資本によって、完全にコントールされている。だから、専制国家だ、というのです。一言でいえば、代議制以外の政治的行為を求めることですね。・・・(中略)・・・デモクラシーは、議会ではなく、議会の外の政治活動、たとえば、デモのようなかたちでのみ実現されると思います。(p.150-152)


きわめ正当な考え方だ。中間勢力があったからこそ政治的コントロールができたというのは至言である。ネット論議についても手厳しい。

アソシエーションの伝統のあるところでは、インターネットはそれを助長するように機能する可能性があります。しかし、日本のようなところでは、インターネットは「原子化する個人」のタイプを増大させるだけです。・・・(中略)・・・とりあえず、デモが存在することが大事なのです。しかし、そのためには、アノシエーションがなければならない。昔、デモがあったのは、結局、労働組合があったからですよ。・・・(中略)・・・だから、アソシエーションを創ること、それがとくに日本では大事なんだと思います。個人(単独者)はその中で鍛えられるのです。日本ではう共同体がないのだから、もうそれを恐れる必要がない。自発的に創ればよいわけです。多くに国ではそうはいかないですよ。部族が強いし、宗派お強い。エスニック組織も強い。逆に、日本では、もっと「社会」を強くする必要がありますね。そして、それは不可能ではない、と思います。(p.155−157)


柄谷行人の言説が説得力を持つのは、世界史的レベルと歴史的な反復のサイクルを押さえているからである。宮台真司『日本の難点』は、「社会の底がぬけた」と形容する複雑化した社会について「一人の著者が串刺しして論じ、かつ時事的に論じた」本を目指したらしいが、エリート的発想による時事解読をしているものの、論理の破綻が眼に付き、現代社会の状況に対応する一つの処方箋以上のものではない。


日本の難点 (幻冬舎新書)

日本の難点 (幻冬舎新書)


例えば、宮台真司のいう社会学的使命は次のように記述されている。

道徳感情」の共有によって「神の見えざる手」を支える「モラルエコノミー」と「底の抜けた再帰性」を是々非々で制御する「共同的的自己決定」との間の、再帰的=相互強化的な循環を構築・維持するべく、価値の埋め込みを含めた社会循環の設計を行うのが、社会学の使命なのです。(p.206『日本の難点』)


このような記述は学者的な言葉の羅列に過ぎない。「社会学的使命」を果たしてから言ってほしいものだ。ちなみに、宮台自身「インターネットと対面コミュニケーションだけで僕には全く不自由がありません。」(p.30)と述べている。まあ、宮台氏のいう「ミメーシス」や「利他的」あるいは「柳田國男的農村共同体」という言葉は分からなくはない。

「社会設計は基本的に人の手に余る」ということです。「カテゴリーの分類が恣意的だ」という意味論的限界、「世の摂理は人知を超える」という時間的限界ゆえに―社会設計は必ず間違ってしまうものなのです。(p.111『日本の難点』)


上記の宮台氏がいう「社会設計は必ず間違う」という指摘は評価したい。


宮台氏が告白しているとおり<新自由主義者>として「小さな政府」と「大きな社会」が自分の考えだと明言*1している。また、宮台氏は丸山眞男柄谷行人がいう「中間勢力」がいまだ存在しているという幻想にとらわれいる。*2


いずれにせよ、柄谷行人がいうアソシエーションの構築こそが、「専制国家」に対抗できる方途であることは確かだ。



定本 柄谷行人集〈5〉歴史と反復

定本 柄谷行人集〈5〉歴史と反復

定本 柄谷行人集〈3〉トランスクリティーク―カントとマルクス

定本 柄谷行人集〈3〉トランスクリティーク―カントとマルクス

*1:宮台真司『日本の難点』134−135頁を参照。

*2:基本的に宮台真司が信用できないのは、吉本隆明を参照しながらも、吉本のいう「大衆の原像」とははるかに隔たったエリート的上から目線でみていること、更に決定的なのは石原慎太郎を熱烈に支持し、首都大学東京に居座っていることだ。石原都政と闘ってきた高山宏と対極の位置に宮台真司がいることに起因する。