ウェブ社会をどう生きるか


西垣通『ウェブ社会をどう生きるか』(岩波新書、2007.5)は、ウェブ礼賛論者に対抗する警告の書である。梅田望夫ウェブ進化論』(ちくま新書、2006)に対して、『情報学的転回』(春秋社、2005)が位置していた*1と同様、今回は、梅田望夫/茂木健一郎フューチャリスト宣言』(ちくま新書、2007)に、対して本書が位置する。


ウェブ社会をどう生きるか (岩波新書)

ウェブ社会をどう生きるか (岩波新書)


内容のまとめは、巻末の10項目に箇条書きされている。基本的な内容は『情報学的転回』と同様で、20世紀は「言語学的転回」があり、21世紀は「情報学的転回」がおきるが、その基軸は「機械情報」ではなく「生命情報」でなければならないという。


情報学的転回―IT社会のゆくえ

情報学的転回―IT社会のゆくえ


グーグルがあらゆる情報を収集しているが、その思考の根底には機械的に「集合知」が得られるもの、との楽観論がある。この思考法はかつての人口知能と同じであり、機械は人間の思考を理解できないことは、既に検証されている。グーグルによる情報収集は、一見、民主的平等におもえるけれど、内容の重要度は必ずしも検索結果の上位にあるとは限らない。


検索エンジンでは「生きる意味」を検索できない。西垣氏によれば、生命情報>社会情報>機械情報となり、検索では「機械情報」あるいは、「社会情報」までしか得られない。人生にとって最も重要なのは、「生命情報」であり、「生きる意味」が示されないかぎり、単なる情報の集積でしかない。なぜ、グーグルは全ての情報を収集しようとするのか。その根底には、プロテスタンティズムの精神がある。一神教、それもアメリカ中心のグローバリズムは、自由の名における競争が増幅され、格差は拡大することになる。


梅田望夫ウェブ進化論』に代表される「ウェブ礼賛論」へ批判のことばを引用する。

ウェブ礼賛論を説く人々のほとんどは、一流大学を出ていたり、英語が堪能だったりする「エリート」だからです。受験競争を勝ち抜いてきた彼らは、カジュアルな服装をしていても心の底ではエリート意識が強く、「おちこぼれてきた普通の若者」など相手にするつもりもありません。そこにあるのは能力差別意識です。・・・(中略)・・・とりわけ目につくのは、あまりに米国追従の価値観なのです。成熟や洗練よりも若さと変化を重んじ、アグレッシブに挑戦し、私有財産の拡大につながる実践活動にいそしむ、というのは、昔ながらの米国フロンティア精神の一側面そのものと言ってよいでしょう。(p.169−170)


「ウェブ礼賛論」者は、一見若者の味方であるように装っているけれど、実は「若者エリート」しか、対象にしていない。それは『ウェブ進化論』に顕著にみられる傾向である。


ウェブ進化論 本当の大変化はこれから始まる (ちくま新書)

ウェブ進化論 本当の大変化はこれから始まる (ちくま新書)


梅田望夫は「いま起こっている現象を、過去の思想家の考えや過去の現象とのアナロジーで解釈」(p.159『フューチャリスト宣言』)する人が多いと批判している。おそらく西垣氏も、梅田氏に批判される一人であろうが、西垣氏は、「ウェブ礼賛論」は「古典的進歩主義」であることを指摘している。このアナロジーをどう捉えるかだ。


フューチャリスト宣言 (ちくま新書)

フューチャリスト宣言 (ちくま新書)


いかなる思想も突然に出現するわけではない、必ず過去の思想の影響を受けている。「言葉」を使用する以上完全なオリジナルなどありえない。模倣から出て、過去の思想に付加されるのが思想の形成過程なのだ。ここを押さえておかないと、独自な未来論を展開している思想は、新しく正しいと錯覚することになる。


梅田望夫西垣通の対立図式を揚棄しなければ、情報化社会の行方は見えない。何が正しくて、何が虚偽なのかは、自分の眼で確かめるしかないだろう。新しい思想が優れているとは言えないのは、歴史が証明している。


*1:ウェブ進化論』と『情報学的転回』は拙ブログ、2006-02-122006-03-07の項に記録している。そこで、神の視点について言及した。