殯(もがり)の森


カンヌ映画祭パルムドールに次ぐグランプリを受賞した、河瀬直美殯の森』(2007)を、NHKハイビジョン放映にて観る。奈良の山間部、グル−プホームでは、認知症のしげき(うだしげき)が、亡妻の33回忌になっても今だに妻のことを忘れられずにいる。そのホームに幼い子どもを亡くし離婚した真千子(尾野真千子)が介護福祉士として赴任する。主任の和歌子(渡辺真起子)は、心を閉ざした真千子を見守っている。


冒頭の光景は、風にゆれる森や茶畑が遠景で捉えられ、葬儀の列が静かに進んで行く。ホームの様子が映され、お坊さんが、<しげき>の「私は生きているんですか」という質問に、生きているとは二つのことがあり、一つは食べたり、飲んだりの日常生活があり、もうひとつは魂が自覚されることであるという。このお坊さんの言葉は、映画の後半に森のなかで展開される、<しげき>の妻の墓参りに付き添う<真千子>の、葛藤から融和への<魂>のふれあいとして象徴される。


全編に音楽が少なく、せりふは日常会話的にぼそぼそ話すので、ドキュメンタリー映画の様相を呈している。映画のなかへ入り込むには、演劇的空間を排除し、映像に写される自然と同化しなければならない。キャメラの動きが自然に解け込んでいるように、観る者も映画のなかの「自然」に融け込むことが、この映画を理解というより深く感じるためには必要な振る舞いだ。


<しげき>の妻の墓参りに軽自動車を運転して<真千子>が同行する。途中車が脱輪してから、<しげき>が勝手に森の中へ進んで行き、その後を必死で追いかける<真千子>。ここから先は、キャメラの動きに同化することで、フィルムのリズムに乗ることができる。


<しげき>が割ったすいかを食べ、隣にいる<真千子>に食べさせるシーンから、二人の心が通ってくる。突然雨に降られ、二人はずぶ濡れになる。夜、焚き火で暖をとるが、<しげき>の体が冷え切ってしまう。暖めるために<真千子>は裸になり背後から<しげき>の体をおおうように抱きしめる。このシーンは、一種のラブシーンのように視えてしまうけれど、極限のなかでの共存という読みでいいのだろう。


一夜が明け、妻の墓にたどりつく。<しげき>は幻想のなかで妻(ますだかなこ)とダンスを踊るシーンがあり、それを<真千子>は微笑ましくみつめる。本来視えないはずの亡妻が、<真千子>の眼には自然として視えている。


<しげき>は夢中になって墓を掘り始め、<真千子>も手伝う。リュックに入れて持ってきた妻の遺品と、おそらく妻のノートと、死後夫が書き継いだノート数冊。<しげき>は墓前でリュックを抱えて眠るように横たわる。このシークェンスが、カツトなしの長回しで撮られているのは、自然のリズムの継続をカットにより疎外することのないように意図したことが、画面から伝わってくる。


萌の朱雀

萌の朱雀


森のなかでの死者との交流が、癒しと安らぎももたらすものとして描かれている。シンプルなフィルムだが、名状しがたい感銘と余韻を受け取る。カンヌグランプリがこのような地味な映画に賦与されたことは歓ぶべきことだろう。『萌の朱雀』で新人監督賞を受賞し、10年後に同じカンヌでグランプリを受賞した河瀬直美監督に祝福を捧げたい。



河瀬直美殯の森』は、スクリーンで観て欲しい映画だ。