垂乳女(たらちめ)


河瀬直美が『殯(もがり)の森』(2007)でカンヌグランプリを受賞した翌々日、BSハイビジョンで放映があり、その時の感想は拙ブログ2007-05-29に記載した。今回、あらためてスクリーンで見直してみて、基本的な部分に変更はないものの、大きなスクリーンとクリアな映像で観ると、田舎の道や茶畑などの風景の美しさや、風に揺れる森の動きにハッとさせられる。森のなかで一夜を過ごしたあとの、うだしげきと尾野真千子の表情に、一種ふっきれたような新鮮な感覚がみられた。『殯の森』は理解するというより、画面を感じるフィルムだ。


殯の森』の前年に撮ったドキュメンタリー『垂乳女(たらちめ)』(2006)が同時に上映された。キャメラを持った河瀬直美が、祖母と風呂で会話する。「子供のときなぜ帰れとか戻れなどと、私(直美)に言ったのか」「当時13歳か14歳であった自分はひどく傷ついた」と、祖母を責めるシーンが冒頭に置かれる。河瀬直美は、自らの出生の秘密に迫るような『につつまれて』(1992)や、祖母との日常を捉えた『かたつもり』(1994)など、いわば<私小説>にあたる映画をドキュメンタリーとして撮ってきた。


『垂乳女』も同じように私小説なのだが、そこに明らかに監督としての河瀬直美の意図が隠されている。自分が子どもを生んだことで母となり、子どもをも被写体としながら、祖母に「あなたは幸せですか」と問い続ける。自身が出産するシーンがラスト近くに用意され、自らをキャメラの前に曝すとき、祖母への詰問はどのような意味を持つのだろうか。いってみれば祖母を愛しながらも、祖母から傷つけられた二律背反的な錯綜した心境を、自身が出産=母となることで、均衡をたもつことのあらわれと視ることができる。


祖母の垂乳と、若き母親のはちきれそうな乳を対比させている。また、乳房をあらわにした姿で赤ん坊を横に寝かせ祖母の皺だらけの手がその赤ん坊の手を握っている構図。これはまぎれもなく意図された構図であり、ドキュメンタリーだが、そこに河瀬直美の目論見が視えてしまう。



『垂乳女』を観た後、祖母の認知症を契機として、<生と死>の境界を無化したといわれる『殯の森』を振り返ると、フィクションとしての『殯の森』には、画面の手前に河瀬直美がいたことを意識しないわけには行かない。自らの私生活を晒すように撮る姿勢は、原一男『さようならCP』(1974)を想起させる。しかしながら、『につつまれて』から『垂乳女』に至る過程は、自己のルーツを探る旅から母親に成長するまでの変容として描かれる。それにしても、いやそれ故『垂乳女』は畏怖すべき迫力に満ちたフィルムになっている。


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山形国際ドキュメンタリー映画祭2007(2007年10月17日補記)


山形国際ドキュメンタリー映画祭2007の「インターナショナル・コンペティション」部門(審査員長・蓮實重彦)で、『垂乳女(たらちめ)』が「特別賞」を受賞した。

河瀬直美監督に祝福を!