ジャンヌ・ダルク裁判


ジャンヌ・ダルク裁判に関する映画の代表的なものとして、カール・Th・ドライヤー『裁かるるジャンヌ』(1928)と、ロベール・ブレッソンジャンヌ・ダルク裁判』(1962)の二本がある。


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ドライヤーのサイレント映画以後は、ヴィクター・フレミング監督、イングリッド・バーグマン主演の『ジャンヌ・ダーク』 (1948)と ロベルト・ロッセリーニ監督、同じくイングリッド・バーグマン主演 『火刑台上のジャンヌ・ダルク』(1954)がある。この2本の上映ののち、ロベール・ブレッソンは、素人を起用して、ドライヤー作品に比肩する作品をつくった。


ジャンヌ・ダルク裁判 [DVD]

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更にその後、ジャック・リヴェット『ジャンヌ/愛と自由の天使』『ジャンヌ/薔薇の十字架』(1994年) の長時間作品が作られている。リベットのフィルムは上映時間にとらわれないという独特のスタイルで撮り続けており、この2部作はジャンヌの半生を描いた作品として評価される。今1本は、 リュック・ベッソン監督、『ジャンヌ・ダルク』 (1999)があり、まあ可もなく不可もない普通の出来である。


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イングリッド・バーグマンは、アメリカで『ジャンヌ・ダーク』を撮ったにもかかわらず、愛人であったロッセリーニを説得して『火刑台上のジャンヌ・ダルク』でも、ジャンヌを演じている。女優として、年齢に関係なく、「ジャンヌ・ダルク」を演じることが彼女の夢*1だったようだ。


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火刑台上のジャンヌ・ダルク [DVD]

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ジャンヌ・ダルク裁判を裁判記録から映画化したのが、ドライヤーとブレッソンである。ドライヤー作品は、裁判期間を圧縮し、フィルムの密度をあげている。ジャンヌを演じるルネ・ファルコネッティの表情のクローズアップは素晴らしく、裁判官たちのデフォルメされたアップとの対比において、魔女裁判の理不尽さが見事に表出されている。視覚的イメージの横溢にに圧倒される。その後、トーキーになって「魔女狩り」の理不尽さを『怒りの日』(1943)で再び描いた。


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一方、ブレッソン作品は、記録に基づいて淡々と撮られており、常に素人を採用し、本作では後に女流作家となるフロランス・ドゥレ(カレーズ)の清純さがきわだつフィルムになっている。


リッチ&ライト (Lettres)

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それにしても「ジャンヌ・ダルク裁判」における宗教者は「教会」の権威のもと、魔女として弾劾しなければならない執念がみられ、異端として存在することの怖さが露呈される。なぜ、火刑という極刑にしなければならなかったのか。のちにローマ法王により列副され、次いで列聖され聖人となった。これは歴史のアイロニーということだろうか。


ジャンヌ・ダルク裁判」は「宗教」の在り方を根底的に考えさせるとともに、「神」の存在とは何かを考えさせられる。過去の歴史のみならず現在でも、かたちを変えた「魔女狩り」が行われていないと言い切れるだろうか。


■追記

ジャンヌ・ダルク」に関連して<聖女>として肯定的に捉えるなら、バチカンすなわちローマカトリック教会の存在が、柄谷行人の云うところの大きな「中間勢力」として機能していると考えることができよう。伝統勢力ではあるが、ヨーロッパ各国家の歴史よりもはるかに長い教会史を持つ。



奇跡の少女ジャンヌ・ダルク (「知の再発見」双書)

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ジャンヌ・ダルク―歴史を生き続ける「聖女」 (岩波新書)

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*1:ヒッチコックが『山羊座の下に』(1949)を撮影中、「ジャンヌ・ダルク」こそ映画だと考えるバーグマンに「イングリッド、たかが映画じゃないか」と言ったことはあまりにも有名な逸話となっている。