シネマ 1*運動イメージ


待ちかねたドゥルーズ『シネマ 1*運動イメージ』(法政大学出版局、2008.10)を読了した。ドゥルーズ自身が言うように、本書と『シネマ 2*時間イメージ』は、映画史ではなく、映画の分類の試みと記している。映画は古典的なモンタージュによる「運動イメージ」から、戦後の「時間イメージ」に進化するのではない。がしかし、本書によってやっと『シネマ2』へ繋がった。


シネマ 1*運動イメージ(叢書・ウニベルシタス 855)

シネマ 1*運動イメージ(叢書・ウニベルシタス 855)


哲学で映画を読むことは、手にあまる課題だ。けれども映画を、ドゥルーズ的な「イメージ」に置き換えることは理解できそうだ。従って『シネマ 1』について、何らかの覚書を残しておくべきだろう。私が、本書を読むにあたって、理解の助けとなったドゥルーズによる哲学的な映画理解、それは「運動イメージ」を三種類に別けたところにある。すなわち、「ロング・ショット」は「知覚イメージ」であり、「フル・ショット」は「行動イメージ」、そして「クロースアップ」は「感情イメージ」である定義が、本書を読む手掛かりとなった。


始めに、フレームとショットとデクパージュを押さえておこう。映画とはフレームに限定された画面の「カット割」(デクパージュ)のつながりなのだから。さて、グリフィス的古典主義、エイゼンシュテイン弁証法、さらに、ドイツ表現主義をまず措定し、第5章「知覚イメージ」において、パゾリーニロメールを登場させる。


パゾリーニ・ルネサンス

パゾリーニ・ルネサンス


パゾリーニについては、次のように記述されている。

パゾリーニの映画の特徴となるものは或る詩的意識であるのだが、ただしそれは、厳密に言うなら耽美主義的でも技術主義的でもなく、むしろ神秘主義的な、あるいは「神聖な」ものだからである。そうであればこそ、パゾリーニは、知覚イメージを、あるいは登場人物たちのノイローゼを、このうえなく下劣な内容のなかで下品さと獣性の水準にもたらすことができる。(135頁)


美の味わい

美の味わい


同様に、エリック・ロメールについても以下のように記述される。

ロメールにおいて重要なのは、一方では、ノイローゼ的現代世界の自由間接イメージをもたらすことのできる倫理的な形式的意識へと、カメラを仕立てあげることであり(「教訓物語」シリーズ)、他方では、映画と文学に共通する地点に到達することであって、ロメールがその地点に触れることができるのは、パゾリーニとまったく同様に、正確に自由間接話法と等価である或るタイプの光学的かつ音声的イメージを創案することによってでしかない。(136頁)


第6章では、ベルイマン『冬の光』『秋ノソナタ』『仮面(ペルソナ)』に触れながら「感情イメージ」に言及される。


仮面/ペルソナ [DVD]

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ベルイマンは、顔のニヒリズムを、すなわち、恐怖のなかでの顔と空虚つまり不在との連関を、すなわち、みずからの無に面する顔の恐怖を徹底的に深めたのだ。ベルイマンは、彼の作品の或る部分において、感情イメージの限界に達している。彼は類似記号を燃やし、また、ベケットと同じ確実さをもって顔を焼き尽くし消失させるのである。(177頁)


クロースアップについては、ドライヤーを引き出してくる。

ドライヤーにおいては、反対に、深さとパースペクティヴの否定によってこそ、すなわちイメージの理念的な平面性によってこそ、フル・ショット(中くらいの平面性)あるいはロング・ショット(包括的な平面性)とクロースアップ(大きい平面)との同一視が可能になるだろうし、空間ないし背景とクロースアップとの同等視が可能となるだろう。(191頁)


むろん、クロースアップが多用されている『裁かるゝジャンヌ』を想定しているが、『奇跡』と『ゲアトルーズ』も同様に捉えられる。それをドライヤーからブレッソンへと続けて行く。


シネマトグラフ覚書―映画監督のノート

シネマトグラフ覚書―映画監督のノート


ブレッソンが「断片化」という彼の原理で示唆していたのは、まさに以下のことであるーひとが断片化するひとつの閉じた総体から、ひとが創造する開いた精神的全体へと移行するということ。(208頁)


翻訳者が指摘するとおり、第9章「行動イメージ」からは、「いっそう定義しやすい領域」と著者が記すように、アメリカ映画のフォードやホークスが対象とされ、説得的な内容になってくる。しかし日本の読者として、黒澤と溝口を分析した第11章が、より理解しやすい。

日本映画そのものに関していうなら、わたしたちにとってもっとも身近な二人の偉大な映画作家がそれぞれ、二種類の行動空間のどちらか一方を特権的なものとして採用している。黒澤の作品は、闘争=二元性と戦いに浸透する息吹によって活気づけられている。(328頁)・・・黒澤のほとんど男性的でしかない世界は、溝口の女性的宇宙に対置されている。(335頁)


ドゥルーズは、溝口健二について「シークエンス・ショットとトラヴェリング*1によって絶頂に達する物理学と、溝口のテーマ群によって構成される形而上学」と的確に分析している。黒澤明溝口健二を「行動イメージ」の展開によって高く評価している。



といった按配で、極私的引用になったが、『シネマ』こそ、どの視角から読むかによって、映画のもつ「イメージ」の捉え方の重点の置き方が違って視えてくる。とりあえず読了した『シネマ1*運動イメージ』の散漫な印象を抜き書きしてみた。


シネマ2*時間イメージ (叢書・ウニベルシタス)

シネマ2*時間イメージ (叢書・ウニベルシタス)

*1:換言すれば、「ワンシーン=ワンショット(カット)」のことであり、ここで言う「トラヴェリング」とは溝口健二固有のクレーンによる長回し大移動撮影のことである。