寡黙なる巨人


いまここに、「生と死」に関する本質論が記録された書物が二冊ある。多田富雄『寡黙なる巨人』と須原一秀自死という生き方』の二冊。


寡黙なる巨人

寡黙なる巨人


第七回小林秀雄賞受賞の多田富雄『寡黙なる巨人』(集英社、2007)。68歳のときアメリカ出張中からの帰り、金沢の友人を訪ねていたとき脳梗塞で倒れ、重度の障害を持つ身となる。その経緯を綴ったのが冒頭に置かれた「寡黙なる巨人」であり、死の直前で生還し、その後リハビリで別の人格を獲得(それを「巨人」と著者は表現している)して行く。著者が病を得て生きなおす意思の強さに圧倒される。



自死という生き方―覚悟して逝った哲学者

自死という生き方―覚悟して逝った哲学者



一方、多田氏とは対照的な生き方として須原一秀がいる。『自死という生き方』(双葉社、2008)において「生」を肯定するが故に、65歳にして「死」を自ら選択する姿勢には名状しがたい感銘を受けた。


「死」をどう捉えるかによって、多田氏と須原氏にみられる生き方のどちらに共感するかは、己の生き方にかかわる問題である。甲乙どちらかが良いとかの問題ではなく、あくまで個人個人の生き方の問題である。


私の場合、どちらの生き方を選ぶだろうか。人間にとって「死」はすべての人に平等にやってくる。誰もが、それは今ではない、とやり過ごしているだけだ。多田氏と須原氏は、それぞれ積極的に自らの生き方を決めている。もちろん、多田氏は、ある日突然に襲ってきた脳梗塞を受け入れ、再生するように生き延びている。その脅威的な意思に敬服する。


死はつねに先送りされるが、実は生のなかにある。日々、生のなかに死を実感すること。死を意識しながら生を継続すること。



豊饒の海 第一巻 春の雪 (新潮文庫)

豊饒の海 第一巻 春の雪 (新潮文庫)

豊饒の海 第二巻 奔馬 (ほんば) (新潮文庫)

豊饒の海 第二巻 奔馬 (ほんば) (新潮文庫)

豊饒の海 第三巻 暁の寺 (あかつきのてら) (新潮文庫)

豊饒の海 第三巻 暁の寺 (あかつきのてら) (新潮文庫)

豊饒の海 第四巻 天人五衰 (てんにんごすい) (新潮文庫)

豊饒の海 第四巻 天人五衰 (てんにんごすい) (新潮文庫)


自殺した作家、三島由紀夫伊丹十三の確信犯的な行動を須原氏は肯定するが、ことの真相は分らない。どのような生き方を選ぶかは、個人の問題であり、自分で解決するしかない。そのための参考書が、多田氏と須原氏の極北の二冊である。


伊丹十三の本

伊丹十三の本


偶然の導きから「生と死」にかかわる二冊の書物に出会ったわけで、書物は単なる情報ではない。書物から賦与されるものは単なる情報ではなく「賜わりもの」であり、Webに氾濫する情報とは一線を劃するものだ。


書物から得られる知識・知見は、「世界のありよう」と「自己の存在」を探究することにある、といえば極論だろうか。限られた人生、如何に生きるべきかを思考するために、読書は基本的営為となる。書物とは、もちろん全ての書物がそうであるとはいえないけれど、究極のところ「偉大なもの」であると考えたい。



■アルベルト・マングェル『読書の歴史』(柏書房、1999)および『図書館 愛書家の楽園』(白水社、2008)。


読書の歴史―あるいは読者の歴史 (叢書Laurus)

読書の歴史―あるいは読者の歴史 (叢書Laurus)

図書館 愛書家の楽園

図書館 愛書家の楽園