映画論講義


蓮實重彦『映画論講義』(東京大学出版会、2008)は、著者のほぼ30年前の『映像の詩学』(筑摩書房、1979)を反復し、談話体で書き直したと思える内容になっている。


映画論講義

映画論講義


ハワード・ホークスジャン・ルノワールジョン・フォードのフィルムの細部を引用しながら、ホークスの「装置」は、「転倒=交換=反復」をコメディにおいて具体的に、ルノワールの「官能性」は「枯れ木と笛」によって、また、フォードの「白さ」は、「投げること」へ変容し、蓮實節は解り易い話ことばで綴られるが、その根底にある映画の観方に変わりはない。


映像の詩学 (ちくま学芸文庫)

映像の詩学 (ちくま学芸文庫)


しかし、本書の白眉は冒頭に置かれた「『モンゴメリー・クリフ(ト)問題』について」であろう。「映画のカノン」ははたして可能であろうか。誰もすべての映画を観ていない。いまは、DVDやヴィデオなどで映画を繰り返し観て細部を確認することができる。しかしながら、失われたフィルムを除いても、今存在するフィルムすべてがDVD化されているわけではない。


映画批評の現状と映画にかかわる者たちの映画的知識の貧困さ。それがタイトルの「モンゴメリー・クリフ(ト)問題」というわけだ。ニューヨーク在住の映画監督の助監督が俳優「モンゴメリー・クリフト」を知らなかったというエピソードが語られ、蓮實氏の知人がいう「映画のカノンが必要である」という命題。

批評の問題について、蓮實氏は次のように述べる。

一人の映画批評家は、語りつつある作品について、決して完全に理解してはいない。・・・映画は無数の細部からなっており、その複数の細部か異なる機能の絡み合いで無限に広がっていくわけですから、それを十分理解した上で書ける人などいるはずもない。(p.15)

批評を書く側も、批評を受け取る側も、たった一人の言葉を信用してはなりません。何かを納得するには、複数の視点に触れねばなりません。(p.18)


映画を理解することのことの難しさを、蓮實重彦に語られる(教育される)と、普通の読者なら立たずむしかない。



溝口健二小津安二郎成瀬巳喜男について言及されるし、マックス・オフュルスジャック・ベッケルグル・ダットダニエル・シュミットからゴダールまで、映画というよりフィルムの細部について語られる。読むことの快楽が得られる。


監督 小津安二郎

監督 小津安二郎


本書の問題提起は冒頭の序章と、第VII章「21世紀の映画論」から「リアルタイム批評のすすめ」までの四編にあり、「無声映画を撮った監督」と「無声映画を撮らなかった監督」が共存した時代が映画の黄金時代であったことが証明され、また映画文法への図々ししい確信犯的反乱の事例が列挙される。


映画批評とは本質的に言い換えの試みです。ある意味では翻訳といってもいい。しかし、その翻訳は、映像記号=音声記号からなるフィルムの言語記号への読み換えといった単純なものではありません。フィルムに触れることで、批評する主体は、まず、眠っている記号を覚醒させる、つまり潜在的なものを現行化させるという体験をくぐるぬけるのであり、そのことによって自分も変化せざるをえず、主体がいつまでも維持される静態的な記号の解読ではありません。しかし、それがそのつど覚醒化というできごとと同時的な言い換えの試みであるかぎり、どこまでいっても翻訳には終わりはなく、決定的な言い換えというものは成立しようがない。(p.400)


蓮實重彦は、自らのリアルタイム批評を回顧しながら、生誕100年(2006年現在)にフランスでジャック・ベッケルの催しがないことを嘆く現役批評家であることを思うと、映画批評の後継者の不在に思い至らざるをえない。



シネマ 1*運動イメージ(叢書・ウニベルシタス 855)

シネマ 1*運動イメージ(叢書・ウニベルシタス 855)


ドゥルーズ『シネマ1*運動イメージ』(法政大学出版局、2008.10)が、やっと発売され入手できた。第3章「モンタージュ」まで読みすすめたが、ベルクソンへの理解が不足している分、具体的な映画のタイトルや監督名をたよりに、なんとか進捗しているのが現状である。


シネマ2*時間イメージ (叢書・ウニベルシタス)

シネマ2*時間イメージ (叢書・ウニベルシタス)


「UPタッグセールス」として、『映画論講義』と『シネマ1*運動イメージ』『シネマ2*時間イメージ』が表裏に記載されたリーフレットが挟まれている。とりあえず、蓮實重彦をほぼ読了したが、「映画」を読み解くことの難しさを再認識させられたのだった。