溝口健二の映画


ビデオやDVDでは観ているものの、リアルタイムで観ていない溝口健二をスクリーンで観る経験は多くない。特にロングショットが多い溝口作品の場合、可能ならば全作品をスクリーンで見たいと願っている。小津安二郎は、バストショットが多いので、TV画面でくり返して観ることは楽しいが、溝口健二はそうはいかない。



溝口健二といえば、長回し、クレーン撮影、セッティングに執拗なまで固執する、俳優の演技に「反射していますか」と注文をつける等々。およそ、様々な人々が、様々なメディアを通して語られている。溝口健二の映画技法についてあらためて記すまでもあるまい。


溝口健二 大映作品集Vol.1 1951-1954 [DVD]

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小津安二郎黒澤明が男性の視点からみているとすれば、溝口健二成瀬巳喜男は女性の眼で映画を製作していることは、多くの評者によって指摘されている。溝口健二は、女性の<受苦>と<権力と性差>について、女性の本音から迫ったフィルムが多い。


浪華悲歌 [DVD]

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主演女優・田中絹代香川京子山田五十鈴若尾文子たちを美しくかつ女性の本音を引き出している。例えば、表層からみれば『浪華悲歌』(1936)の山田五十鈴と『祇園囃子』(1953)の若尾文子は、あたかも時間を逆転したかのような印象を受けるが、『祇園囃子』が単なる祇園の芸妓(小暮美千代)と舞妓(若尾文子)の自立物語などではないことを、松浦寿輝が「横臥と権力−溝口健二論」*1で蓮實的言説に依拠して分析している。男たち(河津清三郎、菅井一郎、小柴寛治)の「かんきつ」(奸譎)を露呈させた映画であるといえる。しかし、松浦氏が精緻に分析してみせたけれど、女性が男性の権力や金銭を利用して生きる決意は既に、山田五十鈴によって宣言されている。『浪華悲歌』や『祇園の姉妹』(1936)からみれば『祇園囃子』の小暮美千代と若尾文子は後退しているのだ。それは、遺作となった『赤線地帯』(1956)における娼婦たち、とりわけ若尾文子京マチ子に表出されている生き方に、引き継がれていることを観れば明らかだろう。


祇園の姉妹 [DVD]

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ところで、今回観た5本の中で、『近松物語』(1954)は、その完成度の高さにあらためて映画の力をみせつけられた。すべてにおいて完璧すぎるフィルムだ。実家の金銭的事情で大経師以春(進藤英太郎)の後妻になったおさん(香川京子)は、兄道喜(田中春夫)がお金を無心にきたことを、手代の茂兵衛(長谷川一夫)が知ることから、物語が急展開していく。映画の冒頭ちかくに不義密通した男女がさらし者になり、市中引き回しされるシーンがあらかじめ示される。必ず言及される琵琶湖の入水シーン。おさんの足を縛りながら茂兵衛は、本心を打ち明けるシーンがある。茂兵衛の告白を聞きおさんは死ねなくなる。密通の疑いのため逃げていた二人が、この瞬間から本当の<愛>を交歓する密通者となる決定的な光景である。この水上シーンをはじめ、細部がこれほど際立っている映画は稀有のこと。香川京子の気品と長谷川一夫の男の色気。緊迫した男女の道行シーンのあと、進藤英太郎が小判を数えるシーンや、二人が引き離されたあと、能天気な田中春夫が謡いをうたうシーンへと繋ぐカットは、聖俗が対比される見事なシーンになっている。



近松物語』の完成度の高さからみれば、名作といわれる『雨月物語』(1953)の、小沢栄と水戸光子夫婦は、あまりに教訓めいた通俗的な結末に収まる。もちろん、森雅之を巡る田中絹代京マチ子の対照的な世界の描きわけの巧さや、ラスト近く森雅之が悪霊から逃れて帰宅し、無人の自宅に入りぐるりと一回りして正面に戻るとそこには、暖炉に火がともり死んだはずの田中絹代が酒と料理を用意して帰りを待っている。このシーンがキャメラ長回しによるものであることはあまりも知られている。水上で海賊に襲われた船に遭遇する霧深いシーンなど、見所満載のフィルムであることで名作の条件に満ちていることは否定できない。


西鶴一代女 [DVD]

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今回は製作順、つまり『浪華悲歌』『雨月物語』『祇園囃子』『近松物語』、遺作『赤線地帯』と五本観たわけだが、溝口健二の作品は、観るたびに新鮮な発見と驚きに満ち満ちていることが確認できたのだった。女性の受苦と苦悩から自らの生き方を選択する。女性の強さと男性の通俗的な傲慢さ=凡庸さが、すべてのフィルムに刻印されている。瞠目すべき映画監督・溝口健二


映画 1+1

映画 1+1

*1:松浦寿輝『映画1+1』(筑摩書房、1995)