黙読の山


荒川洋治『黙読の山』(みすず書房、2007.7)を入手した。巻末の初出一覧をみながら、短文ばかりだなとは思いつつ読めば、内容は濃い。言いたいことが素直に、率直なことばで読者に響く。飾らない良い文章の見本だ。


黙読の山

黙読の山


まずは、話題になった宮崎吾朗ゲド戦記』の主題歌、「テルーの唄」の作詞問題だ。萩原朔太郎の詩「こころ」の模倣であることは、荒川氏の指摘であきらかだ。映画もひどかったが、作詞も手抜きをしていたわけだ。


オブローモフ〈上〉 (岩波文庫)

オブローモフ〈上〉 (岩波文庫)


ゴンチャロフの『オブローモフ』に触れながら、オブローモフに従う従順なアレクセーエフの生き方にも言及する。

自分というものをもって生きようとすることは、ある意味でむなしいこと、もしかしたら徒労なのではないか。自分というものをもって生きることよりも、それをもたないで、生きることのほうに、しあわせがあるのではないかと。アレクセーエフは、オブローモフのそばにいる。オブローモフがどこかへ行くと、ひょこひょこついてくる。二人はとても楽しそうだ。そこには、古い社会を通り越した人には見えないものがある。(p.25「二人」)


いかにも荒川さんらしい読み方。


哀しき父 椎の若葉 (講談社文芸文庫)

哀しき父 椎の若葉 (講談社文芸文庫)


鎌田慧『椎の若葉に光あれ−葛西善蔵の生涯』(岩波書店、2006)から、葛西の芸術至上主義は単調で、生活が多彩だったことを引き出して言う。


椎の若葉に光あれ―葛西善蔵の生涯 (岩波現代文庫)

椎の若葉に光あれ―葛西善蔵の生涯 (岩波現代文庫)

文学を語るうえで、個々の作品がどのようなものであるかということにも大きな問題はあるが、どうもそういうことだけではないらしい。文学は、文学とじかにつながらない人たちに、はたらきかける。「作」は、「作」と無縁な人たちと、目にみえないことばでつながる。文学は人が想像する以上に社会的なものであることがこれでよくわかる。(p.148「葛西善蔵と人びと」)


「文学は実学である」と断言する荒川氏ならではの卓見。ここでの荒川氏は「テクスト論」とは対照的な位相にいる。


学者の論文に関する苦言はもっともなこと、と首肯したい。巻末の「注」のことだ。「注」が多いほど良い論文なのだろうか。例えば、(46)の数字の「注」を見るために巻末を見る。「注」には作品名や該当頁、つまり出典を記載している。こういう文章は、読むのに苦労する。「注」があるたびに、いちいち巻末を見て確認しなければならない。荒川氏の見解はこうだ。

本文中に、出典も何もかも、織り込むのが基本。それをするためには、知恵がいるが、その知恵こそが文章を、学問を鍛えるのである。そのことがこういう人たち(学者)にはわからないのだ。/この種の膨大な「注」は、ここまでこの本を手間をかけて仕上がったのだということを、仲間向けに示すためのもの。その他に目的があるとは思えない。あったとしても、たいしたものではない。こうしたおろかな習慣は、学術書から学生の卒論まで、いたるところにある。これが学問を汚した。文章の価値を下落させた。学術書から、不要な「注」をなくしてほしい。それだけでも日本はきれいになるだろう。(p.176-177「うしろの価値」)


そういえば、拙が昔、卒論を出したとき、教授から巻末の「注」の数が少ないと指摘されたことを思い出す。一般社会に向けて学術書を出す場合は、読者のことを考えるべきだろう。荒川氏は、大学の非常勤講師として、大学へ出入りしている。大学の事情を分かった上で、学問のあり方に疑義を呈しているのだ。


忘れられる過去

忘れられる過去