ヒッチコックに進路を取れ


山田宏一和田誠共著『ヒッチコックに進路を取れ』(草思社、2009)は、ヒッチコック映画のみどころについて語り尽くされている。もちろん、トリュフォーヒッチコックにインタビューした古典ともいうべき『定本 映画術』(晶文社、1991)に殆どが語れれているわけだが、『ヒッチコックに進路を取れ』は映画ファンとして、また異なる見方を示すものとして面白い。何より、ヒッチコックの作品に登場するほとんど全ての俳優に言及され、彼ら、彼女たちが出演するフィルムに話が及び、語り尽くせない雰囲気になっている。作品を観ていれば、思わず頷きながら読むことになるし、映画をみていなくとも、見てみたいと思わせる対話になっている。


ヒッチコックに進路を取れ

ヒッチコックに進路を取れ


山田宏一は、淀川長治蓮實重彦との鼎談『映画千夜一夜』があり、ヌーベルヴァーグ関係、とりわけフランソワ・トリュフォーに詳しい。和田誠には『お楽しみはこれからだ』シリーズがあり、イラストは映画のワン・シーンを見事に切り取っている。


定本 映画術 ヒッチコック・トリュフォー

定本 映画術 ヒッチコック・トリュフォー


ヒッチコックはリアルタイムで観ていなくて、80年代のリバイバル上映時に『裏窓』など数本をスクリーンでみたが、ほとんどはビデオで観ることになった。その点で、本書は楽しみながら読むことができた。


いま、すべての作品を見直す時間的余裕もないので、映画誕生100年になる1994年頃に書いた「覚書」があるので、それを一部修正して以下に貼付しておきたい。


【映画史上のベスト・ワン】
映画は1994年に生誕百周年を迎えた。 映画史百年を記念して、ロンドンの情報誌「タイム・アウト」は、世界の映画監督や評論家等60人によるアンケートに基づき、映画百年史のなかで最良の作品はオースン・ウェルズの『市民ケーン』、ベスト・ワン監督はアルフレッド・ヒッチコックであると発表した。二人は、自分のフィルムについて徹底した完璧主義者であったが、ウェルズは『市民ケーン』以後、決して彼の処女作を超えることができなかった〈不幸な作家〉だった。一方ヒッチコックは、たとえそれが失敗作と呼ばれても、すべてのフィルムが実に面白い〈幸福な作家〉なのである。 もちろん二人とも偉大な天才であり、球体のような体型は、一度みればまず忘れることのない印象を与える。映画百年という視点で、サイレント時代の字幕書きから映画人生をスタートしたヒッチコックをとりあげてたい。


ヒッチコックは映画の鉄人】
ヒッチコックといえば、サスペンスの神様であり、あまりにも有名な『サイコ』や『鳥』がただちに思い浮かぶだろう。誰もが知っているヒッチコック的世界とは、ある日突然、犯人と間違えられた男が、正体不明の集団に追われながらも最後には、事件の真犯人をつきとめる。ストーリーは起伏に富み、観客はハラハラ・ドキドキしつづけ、主人公とともにめまぐるしく場所を移動し、途中で金髪の美女に出会い、ラストで結ばれハッピーエンド。このパターンは、イギリス時代の代表作『三十九夜』から、『海外特派員』『逃走迷路』『知りすぎていた男』を経て『北北西に進路を取れ』において頂点をきわめる。


北北西に進路を取れ 特別版 [DVD]

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もうひとつの系譜は、スリラーを装ったラブストーリーものである。アメリカへ移住後の第一作『レベッカ』をはじめ、『断崖』『白い恐怖』『汚名』『山羊座のもとに』『裏窓』『泥棒成金』、そして同じ女性に二度も恋をする『めまい』にいたる作品群である。いずれにせよ、ヒッチコックの全作品はラブロマンスと解釈できる。



ヒッチコック的空間】
映画史上のベスト・ワン監督でありながら、アカデミー監督賞を一度も受賞していないヒッチコックは、娯楽映画の達人、言い換えれば職人監督とみなされていた。たしかに、いま彼のフィルムをみると、映画の基本とはフレームであり、それに光と影、キャメラワーク、モンタージュした画面をいかに編集するかの見本が展示され、映画に関するアイデアのほとんどすべてが網羅されている。

ヒッチコック的手法は、全体の風景から細部へキャメラが移動しながら焦点を定める空間処理に代表される。彼の様々なテクニックは、実際多くのフィルムの中にみることができるが、とりわけ一本のフィルムそのものが壮大が実験場となっているのが、『救命艇』と『ロープ』である。


救命艇 [DVD] FRT-108

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『救命艇』は、場面を海上に漂う一艚のボートのなかだけに限定し、キャメラは一歩も外へでない。原案はジョン・スタインベック。極限状況の密室における人間観察を、ファシズムとデモクラシー、金持ちと貧乏人、白人と黒人など、対立する人物に議論を闘わせたきわめて刺激的なフィルムでもある。


ロープ [DVD]

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影技法のひとつに、ワンシーン・ワンショット(ひとつのシーンを編集せずにキャメラを長く回して撮る方法)がある。一本の映画全部をこのワンシーン・ワンショットの手法で撮影する驚くべき冒険に挑戦したのが、『ロープ』である。81分の上映時間が、物語の時間にほぼ一致するよう全編がワンショットの映画を作ってしまった。ストーリーを視覚的に語る、つまりカット割りとモンタージュによる編集が基本のヒッチ的セオリーに反する作品であるがゆえに、貴重な実験作の極北にある挑発的フィルムなのだ。ここでは移動するキャメラと視線を一体化することにのみ意味がある。


【美女という記号】
ヒッチコックの作品には、必ず金髪の美女が登場する。イングリッド・バーグマングレイス・ケリーキム・ノヴァク、ティッピ・ヘドレン。

汚名 [DVD] FRT-036

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 『汚名』は、恋愛する男女間の信頼がテーマであり、男のためにバーグマンは、敵側のスパイと結婚までして情報を入手しようとする。心の揺れをそのまま身体のゆらめきとして演じ、憂愁を帯びたクロース・アップは名状しがたいほど美しい。  

泥棒成金 スペシャル・コレクターズ・エディション [DVD]

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グレイス・ケリーは、外面的にはとり澄まして冷たい表情をしている(クール・ビューティ)が、突然、主人公にキスをするシーンでは、陶酔した官能的な美しさをみせる。ラブシーンの背景に花火が打ち上げられる『泥棒成金』は、以後多くの模倣を生み出した。


キム・ノヴァクが主演した『めまい』では、恋の錯覚に捉われたジェームス・スチュワートが、二度彼女に出会い、二回とも同じような絶望感に襲われる魅惑的なフィルムである。主人公は、死んだ女を生き返らせようとし、生きている女に死んだ女のイメージを重ね合わせて愛してしまう。類例をみない純粋さと様式美が、高度に達成されたヒッチコックの文字どおり最高傑作である。


【きたるべき上映=鑑賞の時代に】
音楽が二十世紀に入り作曲の時代から演奏の時代に変容したように、映画にとって、この100年が映画制作の時代であったとすれば、21世紀は「上映(鑑賞)の時代」になる可能性が高い。21世紀になり10年になろうとしてるが、今のところ制作は継続されている。3D映画など映画に変化がみられるけれど、「上映(鑑賞)の時代」として、DVDで観る時代になった。

〈幸福なスクリーン映画〉の時代は、ヒッチコックや、ハワード・ホークスジョン・フォードエルンスト・ルビッチなど20世紀の代表的作家とともに過ぎ去ってしまったことだけは確かである。 


ヒッチコック作品はどれも見所が満載であり、映画の撮り方を知るためには、代表的なものは観ておくことが望ましい。幸い、残存するすべての作品はDVD化されているので、『映画術』と『ヒッチコックに進路を取れ』を参照しながら観ると良いだろう。
     

試みとして「私的ヒッチコック映画ベストテン」を以下に記しておく。

  1. 「めまい」
  2. 「裏窓」
  3. 北北西に進路を取れ
  4. 「汚名」
  5. 「見知らぬ乗客」
  6. 「海外特派員」
  7. バルカン超特急
  8. 「三十九夜」
  9. 「鳥」
  10. 「サイコ」


鳥 (The Birds) [DVD]

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