私たちはどこから来て、どこへ行くのか


宮台真司『私たちはどこから来て、どこへ行くのか』(幻冬舎,2014)読了。と言っても、かなり読みにくい本だった。敢えて、文章に学術用語を多用しているのは、詳細な「注釈」を付すためなのか。一種の衒学的趣味が漂う。



冒頭の「まえがき」で提起される問題群は、衝撃的であった。
グアンタナモ収容所という出鱈目」、「遺伝子組み換え作物特許権侵害訴訟」「ミリアド・ジェネティク社の特許裁判」「クラフトワークのワールドツアー」「全体主義を以て全体主義を制す」「卓越者の公的貢献動機が疑わしい」「旧枢軸国から旧連合国への疑惑の拡張」は新鮮で、現代社会の偽善を剔抉している。驚きの序文だ。


著者自身も言及するよう、経済学は100年、政治学(哲学)は2000年以上の歴史を持つが、社会学は20世紀の新しい学問であり、現実的状況的な「実践的指針」や処方箋を示すことができる、というところだろうか。


現在、日本の実践的指針とは、政策パッケージ的に言えば、こうです。
なお、見出しは「<参加>と<包摂>を涵養する」。

一方に〔外交は強硬派、内政は自助重視、意思決定はトップダウン、効率指向〕。他方に〔外交はリベラル、内政では共助公助重視、意思決定は熟議、多様性志向〕。前者はポピュリズムの標的です。放置すればグローバル化による格差化&貧困化で分厚くなります。<フィクションの繭>を<参加>で破り、噴き上がりの温床となる不完全状態を打破するのに加えて、<分析された共同体>を<包摂>で繕い、噴き上がりの温床となる体験不足を打破することが必要です。/住民投票の二つの目的―<参加>体験の供給と<包摂>体験の供給・・・・(p.363)


ここでは、ポスト冷戦後、グロ―バル化した世界で、パッケージ化した先進国の政策の2パターンを挙げて、前者はまさしく、現在の安部政権の政策そのもの、後者が宮台真司が、<参加>と<包摂>という言葉で説明する住民投票と熟議。


東京都の住民投票条例運動の署名を法定署名数の1・5倍でもって、都議会に上程した、との成果を披露されている。当時の石原都知事は「住民投票の方法をとることは危険であり、冷静に議会で議論すべきである」との趣旨の発言で終わっているのは周知のとおり。



住民投票で言えば、國分功一郎氏の小平氏市の運動事例が、学者として誠実な係わり方をしていてかつ分かり易い。


宮台真司は、実存的問題を禁欲していると「あとがき」で述べている。問題は二項対立的でくなく、輻輳していること、また、自明性問題は時間生の配慮によって対処した、と記している。問題は学問的蓄積問題を、150点の註釈として巻末に置かれていることだ。

つまり、本書の読者は、どのようなレイヤーにいるのだろうか?

個人の実存を敢えて禁欲している宮台によれば、丸山眞男が喝破した「虚構」の尤もらしさが崩壊してきたという。この15年間で、宮台の認識は変化した。社会の過剰流動性(共同体空洞化)に 起因する問題の多くが、日本で顕在化してきた。しかし、共同体の空洞化は、宮台が認識する以前から、とりわけ竹内好氏等による「前近代的共同体」を否定的媒介として近代を構築する思考法を提起していたはずである。つまり、戦後文学の時代にあって既に「共同体」は空洞化していたのだ。

宮台が云う「共同体」とは、「ゲマインシャフト」だと思うが、一貫して残存するゲゼルシャアフト(利益共同体)」が例えば、「原子力ムラ」のような利益共同体の解体こそ、喫緊の問題ではないのか。

宮台真司が、<丸山眞男の「虚構」>*1と表現しているが、正確には戦後民主主義の「虚妄」ではないのか?。


〔新装版〕 現代政治の思想と行動

〔新装版〕 現代政治の思想と行動


丸山眞男『現代政治の思想と行動(増補版)』(未来社)の「増補版への後記」から以下に直接引用する。

政界・財界。官界から論壇に至るまで、のどもと過ぎて熱さを忘れた人々、もしくは忘れることに利益をもつ人々によって放送されるこうした神話(たとえば「占領民主主義」の名において一括して「虚妄」とする言説)は、戦争と戦争直後の精神的空気を直接に経験しない世代の増加とともに、存外無批判的に受容される可能性がある。(p584)

私自身の選択についていうならば、大日本帝国の「実在」よりも戦後民主主義の「虚妄」の方に賭ける。(p585)


これは、1964年の言葉である。1960年代において、既に丸山眞男のいう風潮が出ていた。
宮台真司のいう30年ではなく、丸山氏が「虚妄」に賭けると書いてから、50年以上になる。



なお、宮台真司の「まぼろしの郊外」以降の時代区分は、あまり細分化され、宮台固有のネーミングや解釈には、あまりに現実密着過ぎるのではあるまいか。宮台説は、魅力的ではあり最後まで読ませる迫力に満ちているが、普遍性を獲得しているかと問えば、いささかの疑問を覚えざるを得ない、というのが読後の率直な思いである。

宮台氏はアリストレレスの「テロス」に、根拠を置く。中間層の創出、そのための個人の自覚・自立を促している。更に、ミメーシス(模倣的感染)に強い意義を見出しているようだが、その例として、タイガーマスク伊達直人を名乗る人物によるランドセル寄贈が、ミメーシスを呼び起こすとの予想があたっていると述べるに至り、正直、失望せざるを得なかった。

自立や自己陶冶に期待することが、果たして中間層の形成に結びつくのだろうか。

2500年前のアリストテレス政治学を実践することの効用が、歴史的に見ればほとんど不毛であるとしか言えない。ミメーシスは、直近では、丸山眞男の云う「大日本帝国」の「実在」にこそ検証されている。

宮台真司が、ゼミや授業で、自立と自己陶冶、善きことのミメーシスを言及しても、所詮限界がある。宮台氏の言説は、一歩間違えば、危険な魅力を持つことの方が、気ががりになってくる。


日本の難点 (幻冬舎新書)

日本の難点 (幻冬舎新書)


本書は、『日本の難点』の続編だが、グローバル化した問題は、日本に留まらない。実存的問題を禁欲していると言った姿勢、更に膨大な学問的註釈など、さしずめ現代思想オタクの教祖的オーラを露呈している。本書は、宮台教の教則本にほかならない。まさしく宮台的ミメーシスの感染の範囲が限定されるが故に、ミメーシスへの依存は、逆ベクトルにある「大日本帝国」幻想へのミメーシスを増殖させることを否定できない。小生の誤読であると思うけれど、宮台真司による「ミメーシス」は、実に危うい。

*1:宮台真司が云う丸山眞男の<権力の虚構>というのは、丸山氏の言説で言えば「無責任の体系」と「抑圧の委譲」ではないのか。