丸山眞男回顧談


松沢弘陽・植手通有編『丸山眞男回顧談(上)(下)』(岩波書店,2006.8,10)は、『丸山眞男集』刊行の過程で生まれた時代の証言記録になっている。生前の丸山眞男は、自分の全集を出すことに消極的だった。論文の単行本化すら、極端に禁欲的であったことは周知のとおりだろう。


丸山眞男回顧談〈上〉

丸山眞男回顧談〈上〉

丸山眞男回顧談〈下〉

丸山眞男回顧談〈下〉


『回顧談』上巻は戦前まで、下巻は戦後から東大を定年前に退官するまでが語られている。下巻は戦後、丸山眞男が論壇に登場し、注目される論文『超国家主義の論理と心理』や『軍国支配者の精神形態』などの背景がみえてくる。三島庶民大学が1946年1月から開催され、敗戦後の民衆がいかに、知識に飢えていたか、また真剣に丸山眞男たちの講義を聴いたか。いまでは信じられない光景だ。それは、丸山眞男が『世界』に、のちに「抑圧の委譲」や「無責任の体系」と形容される戦前の軍国思想を批判して、一躍マスコミの脚光を浴びる以前の出来事だ。庶民大学のレジュメの一部が、『丸山眞男手帖』に採録されているが、歴史認識として19世紀以降が近代であり、それ以前の18世紀とでは深淵があるという。

十九世紀と二十世紀とはひと続きなのである。ある意味からいうと、ギリシア・ローマの昔から紀元一世紀を経て十八世紀までを一括して「昔」と呼び、十九世紀以後現在までを「今」と呼んでも、さして不当ではない。
(p115『回顧談(下)』)


20世紀に思想家は出現しなかったと丸山眞男はいう。すべて19世紀の思想家であり、20世紀とは戦争の世紀であった。


〔新装版〕 現代政治の思想と行動

〔新装版〕 現代政治の思想と行動


福沢の『脱亜論』については、「日本学士院」報告*1丸山眞男が述べているように、「脱亜」という表現は、福沢はこの短い論説でしか使用していない。「脱亜入欧」が福沢の代名詞になっているけれど、それはおかしい。福沢はもっと明確に中国、朝鮮を捉えていた。

現代のように、エレクトロニクスとかコンピュータとか、それだけになってしまって、歴史をつかむことが同時に現在をつかむことだというのが、どうしてなくてしまったのか。ぼくだけにかぎって言えば、恩恵をこうむっているのはマルクス主義です。歴史を現代とは不可分というのは、マルクス主義をやっていると、どうしてもそうなるのです。歴史を離れて、社会科学というものがありえない。(p.216『回顧談(下)』)


丸山眞男の徂徠学評価について、氏自身は次のように語る。

ある意味では、ぼくに対する過大評価と悪口とが同時にくっついた批判の一つなのですが、政治を重くみて、政治的思惟の優位ということから、徂徠学を高く買った。そして政治思想というものを日本で、それ自身、独自に存在するものとして認めた、と。それは褒め言葉だけではなく、同時に江戸時代の思想史を歪曲したという批判にもなるのです。(p.218『回顧談(下)』)


丸山眞男は、自身への批判者の思惟方法を熟知していた。確かに、丸山眞男が徂徠学に「政治の発見」をみた。思想史研究史上の画期的な論文「近世儒教の発展における徂徠学の特質並びにその国学との関連」(『日本政治思想史研究』*2)は、戦時下の婉曲的体制批判であったのだ。


世に「丸山政治学」と呼ばれるものがある。

大塚史学といって、大塚経済学とは言いませんね。経済学とは何であるかについては常識がある。それに対して政治学とは何であるかについては、常識がない。そこへぼくが現状の分析をやったものだから、それで丸山政治学なる言葉ができたのでしょうね。(p.221『回顧談(下)』)


「丸山政治学」なるものなどない。世間やマスコミが勝手に命名しただけなのだ。
丸山眞男回顧談(下)』を読了したが、いわゆる丸山眞男像が一人歩きしているようだ。没後10年、数多くの丸山眞男論が上梓されている。しかし、丸山眞男の全体像を捉えることはきわめて困難である。「丸山政治学」が依然として通用する世界。冥界から丸山眞男は、その混乱ぶりに迷惑しているような気がする。



左右から批判される丸山眞男については、批判者自身が21世紀の『現代政治の思想と行動』を書くべきであり、徂徠や宣長を読み直す批判者自身による「政治思想史」が書かれるべきであろう。その点、『忠誠と叛逆』が現時点ではきわめて刺激的で興味深い内容であることが確認できる。


丸山眞男 (KAWADE道の手帖)

丸山眞男 (KAWADE道の手帖)

*1:福沢諭吉の「脱亜論」とその周辺」(『丸山眞男手帖20』

*2:日本政治思想史研究