ヴェトナム映画の香り


2年ほど前に書いた「ベトナム映画」に関する原稿(覚書)だが、埋め草として拙ブログに記録しておきたい。
        

【ヴェトナムから遠く離れて】
かつてヴェトナム戦争があったことを知らない世代が増えている、いやそれ以前のベトナムは、フランス領であったことも忘れられようとしている。フランシス・コッポラ地獄の黙示録・特別完全版』(2000)では、フランス人の入植者達がプランテーションを経営しながら、土着しているシーンが追加されており、仏領インドシナという歴史的名称が浮上してきた。ヴェトナムの歴史が重層化していることが、よく分かる作りだった。初公開時、オーロール・クレマンを女主人とするフランス貴族的農園のシークエンスが、全てカットされていたのだった。

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ヴェトナムを描いた映画は、オリヴァー・ストーンの『プラトーン』(1986)をはじめ膨大な数をあげることができるだろう。しかし、それらは全てアメリカ人の眼を通して、あるいはアメリカ人の眼に写った映像にほかならない。


【トラン・アン・ユン】
ヴェトナムを描いた映画からフランスの影響を感じさせるのが、トラン・アン・ユンの『青いパパイヤの香り』(1999)*1であろう。ヴェトナムに生まれ十二歳のとき一家でパリに亡命したトラン・アン・ユンが撮った処女作。1950年代を舞台にしたこの作品は、サイゴン市内をセットで再現したもので、ヴェトナムでロケーション撮影を試みるのは第二作『シクロ』(1995)からである。

青いパパイヤの香り』は、セット撮影という条件ながらも、古き良き時代のヴェトナム人の生活が、丁寧に再現され、ゆったりした時間の流れの中で、フランス植民地時代の文化的足跡を払拭することができないアンビヴァレンツな雰囲気が、まことに見事に映像化されている。その意味で、ヴェトナム人の心情を読むことのできる優れたテクストとなっている。田舎から出てきた少女ムイは、ある家庭の使用人として仕える。彼女は、日々の仕事をいかにも楽しそうに引き受ける。その家の長男の友人クェンが、何度か友人として尋ねてくる。ムイが料理を運ぶシーンは、キャメラ長回しで捉えることで、ムイの浮き立つ心情を繊細に映している。やがて成長したムイは、クェンの使用人となる。ラストシーンでは、黄色のドレスをまとって読書するムイが、新しい生命を宿して、自信に満ち輝いている。
この作品で、成長したムイを演じたのが、トラン・ヌー・イエン・ケーで、その後『シクロ』では、やくざな詩人を愛してしまう女、『夏至』(2000)では、三人姉妹の末娘役を演じ、監督夫人として常に良きパートナー振りを発揮している。


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【トニー・ブイ、アメリカの影】
一方、サイゴン生まれで、二歳のときアメリカに移住したトニー・ブイは、ハーヴェイ・カイテルの協力を得て『季節の中で』(1999)を撮る。物語は、地方から出てきて、現在隠棲している老詩人の屋敷で、蓮摘みとして雇われる少女(『青いパパイヤの香り』の少女に通じる)を中心に、シクロの運転手と彼が恋する娼婦、娘を探すためにアメリカから来た男ハーヴェイ・カイテル。これらの物語が交錯しながら、戦後のホーチミン市(旧サイゴン)の人々の生活をヴェトナム同胞の眼で捉えている。

ストリート・キッズの生々しい生き方を織り込みながら、ヴェトナム戦争後のサイゴン市民の日常を、彼らに寄り添うように映像化している。 娼婦を廃業した女が、アオザイを着て紅葉の美しい街路に立つシーンは忘れがたい。戦争のみが声高に語られてきたヴェトナムは、今、日常を回復しつつあり、彼らの誇りに満ちた生活ぶりが、粉飾ない瑞々しさによって提示されている。


シクロ [DVD]

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【シクロ、経済発展の裏社会】   
トラン・アン・ユンの『シクロ』は、彼のフィルムの中では異色作。シクロ(輪タク)を仕事とする青年と、シクロたちのとりまとめをしている女親分。彼女の配下で働く詩人がトニー・レオンで、その詩人を愛するのが青年の姉。やくざな詩人に売春を強要されても、拒否できない姉。ホー・チミン市にロケして撮った作品だけにリアリティが深い。市場化する社会の裏面を鋭く剔決した血と汗と労働の世界に、向き合った問題作。トニー・レオンは、虚無と孤独を体現する詩人として存在感が抜群である。姉のトラン・ヌー・イエン・ケーは、不安定な役柄をそつなくこなしていて役柄の割りには清楚な印象を与える。

夏至 特別版 [DVD]

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夏至〜ヴェトナムの開放性】
20001年に日本公開された『夏至』は、ヴェトナムの生活を肌で感じさせる優れたフィルムとなっている。ハノイを舞台にした、ある家族の物語。三人姉妹とそれぞれの夫たちが父の命日に集まる。三姉妹と長女の夫、各々が悩みをかかえていた。ヴェトナムの美しい風景と固有の食物。ゆったりした時間が流れ、本来もつヴェトナム人の開放的性格の官能的描写。兄を恋人以上に愛する末娘。この作品からは、何処の世界にも共通する話題、すなわち、夫の不倫、妻の浮気、売れない小説家と彼を支え励ます妻。ありふれた日常を、力みなく自然に捉えたキャメラの心地よい動き。悩みは深いけれど生活は続いてゆく。このシンプルな生活の原則を過不足なく描出する才能は『夏至』において結晶している。
何よりも雨や陽光などの自然描写が素晴らしい。また、長女の夫の不倫相手が子供と二人で暮らす場所は水上であり、海や背景の山々の美しさは、あたかも桃源郷のような佇まいを感じさせる。男が癒される場所として、設定されているようにみえる。また、女性たちの濡れた長い髪に象徴される官能性は、この監督の持味であろう。

トラン・アン・ユンのフィルムを見ていると、ヴェトナムを訪れてみたいと思わせる。アメリカ映画にみえるヴェトナム人は、ほとんど無表情であるが、トラン・アン・ユンの作品には、ヴェトナムの人々の豊かな表情が伺える。もちろん、ベトナム戦争を忘れてはならないし、ハノイとホー・チミン市、換言すれば北と南の差異は、何なのだろうかという疑問や、文化の重層化の視点から筆者自身の眼で直接確かめてみたいと思いはじめてきた。