アンゲロプロスを追悼する


テオ・アンゲロプロスの訃報は突然だった。交通事故死。20世紀新三部作を製作中の1月24日、トンネル内で、オートバイにはねられるというアクシデント。残念というか、あまりにも惜しい人を亡くした。

『エレニの旅』(2004)公開の後、『第三の翼』(2009)の公開を待っているところだった。アンゲロプロス映画全てに字幕を付けてきた池澤夏樹は、『旅芸人の記録』との出会いの驚きから、監督の不在を納得できない旨の記事が1月31日付「朝日新聞(大阪版)」に掲載されている。


拙ブログの2005年8月5日で、『エレニの旅』に以下のように触れている。
まずは、引用しておきたい。

『エレニの旅』は、20世紀のギリシアを舞台にした三部作の一部で、アンゲロプロスの母の世代を描いたと監督はいう。この作品にみられるように、ギリシア現代史を、一人の女性の眼を通して描きながらも、20世紀の世界史に通底する普遍性をとらえた優れたフイルムになっている。

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新三部作の完成をみることなく、突然死した名匠・テオ・アンゲロプロス

以下は、およそ10年前、『永遠と一日』の公開後に記録しておいた「覚書」を掲載することで、テオ・アンゲロプロスへの追悼としたい。合掌。


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【覚書:アンゲロプロスギリシア=時間・国境・神話を横断する映像詩人】


ギリシア映画の巨匠と称されるテオ・アンゲロプロスを語ることは、実は映画とは何かを問いかけることにほかならない。ギリシアという国から、映像として想起されるのは、紺碧の空や海の透明な青さに代表されるエーゲ海であろうし、プラトンアリストテレスの古代哲学か、アクロポリスのような古代遺跡群、あるいは厳格な修業を基本とするギリシア正教などであろう。
もちろん、ギリシア神話も含めて。 ヨーロッパの辺境に位置するギリシアは、観光の国であり、癒しとしてのエーゲ海のイメージが先行するし、誰もギリシア現代史に関心など持っていないかのように見える。アンゲロプロスが『旅芸人の記録』で私たちの前に出現してはじめて、抑圧されたギリシア現代史に直面させられたのだった。


【時間を超えること】
アンゲロプロスの作品は、全編がワン・ショット=ワン・シークェンスで構成されている。とりわけ『旅芸人の記録』はすべての面で、完成度の高い傑出したフィルムといわれるほど評価が定着している。1939年から53年にかけて、一座がギリシア中を旅して回る。一座の人々の名前は、ギリシア神話からとられオレステスや、エレクトラなどと名づけられ、舞台劇「ゴルフォ、羊飼いの少女」のみを演じ続ける。現実と神話と舞台劇が、渾然一体となって、ギリシア現代史が重層的に立ち現われてくる。ワン・シークェンスの中で、年代的記述が解体され、全く別の時系列すなわち、アンゲロプロス的映画時間とでも呼ぶべき独特のリズムが構成される。このスタイルは、全作品を通じて一貫して変わらない。

 続く『狩人』は、1972年の新年祝賀パーティの会場が、ブルジョワたちの過去の回想と現在を、同一空間のなかで捉えてしまうきわめて実験色が強いフィルム。冒頭の雪の狩猟シーンで、発見されたパルチザンの死体をめぐって、実はブルジョワたちが様々な問題や悩みを抱えていることが、明らかにされてゆく。しかも彼らの孤独さが容赦なく白日のもとに曝される。結局、発見された死体は、もとの場所に埋めることで、あたかも何事も起きなかったかのように、フィルムは閉じられる。 軍事・政治・経済の支配者たちの心の空虚さを、夢想劇として映像化した驚くべき傑作といえよう。

 『アレクサンダー大王』は、ユートピアとしてのコミューンの成立と崩壊を、革命と戦争の時代であった二十世紀の最初の年に設定したすぐれて明快な歴史批判となっている。もちろん、ギリシア現代史三部作を総括しているフィルムであり、緩慢な長回しが、時には360度キャメラをパンさせながら、理想的な政治も、一瞬にして専制的な抑圧体制に移行することを、瞳の残像に刻印するほど強烈に訴えている。 村の広場で、専制者が民衆たちに呑み込まれる。そのあとには、アレクサンダーの大理石の頭部像だけが残されている。少年アレキサンダーが、馬に乗って夜のアテネの街に向かってゆくラスト・シーンは、神話が現代とリンクする象徴的光景となっている。


【寡黙な旅をすること】
 『シテール島への船出』は、父の帰還を、『蜂の旅人』は、過去を捨て去った父親の自死を言葉少なに描く。三部作の掉尾を飾る『霧の中の風景』は、少女と少年の姉弟が、父が住むと信じているドイツに旅するロード・ムービーの形式を踏んでいるが、ラストショットに見せる一本の木に、未来を託さざるを得ない目的を喪失した現代社会への警鐘を語っている。二人が出会うオレステスと名乗る青年は、『旅芸人の記録』の一座の仲間であり、ギリシア中を旅しているけれど、もはや彼らが興業を行なう場所はどこにもない。テッサロニキの港で、芝居の衣装や小道具すべてを売り払ってしまう。 
霧の中の風景』がそれまでのアンゲロプロスの全作品を相対化し、いわば物質的に豊かになった時代の大人達の内面を、子供の眼を通して露呈させた。以後の作品は、国境問題や民族問題、そして個人としての生の終焉に触れてゆくことになる。



【国境を越えること】
 『こうのとり、たちずさんで』では、移民問題を調査しているTV報道員が、国境周辺の難民の中に失踪した政治家がいることを知り、妻に本人であることを確認させようとする。妻はとまどいながらも、夫であることを否定する。この夫妻を、マストロヤンニとジャンヌ・モローが演じ、明確な解答を与えないアントニオーニへのオマージュとなっていることに気づくだろう。 酒場では、多数の人達がダンスを踊っている。その中で主人公と若い娘が、無言のうちに見つめ会う印象的なショットがあり、娘は国境の河を挟んで、対岸の男と結婚式を挙げる。国境とは廃棄されるべきものとして、キャメラは、その非情さを無言の結婚式に表象させている。

ユリシーズの瞳』は、監督Aが失われたマナキス兄弟のフィルムを捜し求めてバルカン半島を旅する。あたかも神話のオデュッセイアのように四人の女性に出会う。彼女たちに導かれて、バルカン半島における今世紀の悲惨な歴史の光景を眼前にしながらサラエボに辿り着く。二十世紀がサラエボで始まり、サラエボで終わろうとしているこの百年を、霧の中での惨劇として、救いの糸口を見出だすことができないまま、空白の画面が示す畏怖の結末は見る者に解答を示さない。


【晴れること】
社会の精神的状況を、湿り気のある風景に表現し続けてきたアンゲロプロスの到達した心境が『永遠と一日』。重い病を患っている詩人が、入院を前にして、自らの人生を回想し、妻とのとりかえしのつかない関係を悔いながらも、回想のなかで濃密な時を持つ。同時に、アルバニヤ難民の少年を救うことが、喪失からの解放を詩人にもたらす。少年との別れの夜、二人が乗ったバスには、学生運動家、若い恋人たち、音楽を学んでいる芸術家の卵、そして詩人ソロモスが、次々と現われては、去ってゆく。この幻想的なシークェンスは、アンゲロプロス映画そのものを凝縮している。 決して晴れることのなかったアンゲロプロスの映像に、『永遠と一日』において、はじめて地中海の明るい日差しが降り注いでいることを見逃してはなるまい。

<フィルモグラフィ>