帝国


アントニオ・ネグリマイケル・ハート『帝国』(2003)の原書刊行が2000年であったこと、その後、2001年9月11日のツイン・タワーへの攻撃があり、アフガン・イラク戦争へ転回していったのは周知のとおりだ。にもかかわらず、20世紀が「戦争と革命の時代」であったことを想起すれば、柄谷行人の「世界共和国」は、ネグリ&ハートの「マルチチュード」を凌駕しているだろうか。国家内での国家の揚棄が問題であるとすれば、国家を超えた諸国家の揚棄こそはるかに困難ではないのか。

“帝国”―グローバル化の世界秩序とマルチチュードの可能性

“帝国”―グローバル化の世界秩序とマルチチュードの可能性

柄谷行人は『世界共和国へ』で、ネグリ&ハートを次のように批判している。

マルチチュードの自己疎外としてある諸国家は、マルチチュードが自己統治することによって揚棄されるだろう、というアナキズムの論理です。ここでは、国家の自立性が無視されています。こうしたマルチチュードの反乱は、国家の揚棄よりも、国家の強化に帰結するほかないでしょう。(p.218

果たしてそうだろうか。ネグリ&ハートの「帝国」とは、「グローバル化した世界」のことであり、「マルチチュード」とは、多種多様な越境的存在のはずだ。柄谷氏のいう「諸国家の揚棄」が、「国際連合」という理念のなかで達成されるかどうかがはるかに疑問だ。まさしく、国家の利害を象徴しているのが「国際連合」ではないのか。とすれば、ネグリ&ハートの「アナキズムの論理」と批判された「マルチチュード」に、「幻想」を抱くことがはるかに現実的であると、私には思えるのだが。