街場のメディア論


内田樹『街場のメディア論』(光文社、2010)を、著者からの贈り物として読んだ。まず、冒頭における「キャリア教育」批判には大いに賛同する。現在多くの大学で、「キャリア教育」と称して二年生から、早い大学では一年生から始められている、あの「自己発見」「自己分析」という文科省指導の時間浪費科目だ。


街場のメディア論 (光文社新書)

街場のメディア論 (光文社新書)


そもそも20歳前後に、自分はどんな職業に適しているかなど、明確に分るわけがない。新卒の会社員が、2〜3年で退職するケースが多いのは、この仕事は自分に合っていないという「キャリア教育」の負の現れとみていた。内田氏は、「キャリア教育の大間違い」の中で次のように述べている。


僕は今の行政主導で行われているキャリア教育というのは、まったくキャリア教育として役に立たないと思っています。今の行政のキャリア教育の大枠というのができたのは、少し前の中教審答申からですけれど、基本スキームは「自己決定・自己責任」論と、「自分探し」論です。・・(中略)・・・僕はそういうのは大学でやることじゃないと思っています。教育の場に長くいた人間として、僕が経験的に言えることは、人間の潜在能力は「他者からの懇請」によって効果的に開花するものであり、自己利益を追求するとうまく発動しないということです。平たくいえば、「世のため、人のため」に仕事をするとどんどん才能が開花し、「自分ひとりのため」に仕事をしていると、あまりぱっとしたことは起こらない。(pp28-29)


内田氏の「キャリア教育」観には諸手を挙げて賛成したい。「自分探し」ではなく、「他者理解」の問題なのだ。


本書の核は、メディア論にあるがメディア批判は他の人が言及するであろうから、いまは、電子書籍についての内田氏の持論に触れたい。本棚との関係についてである。

電子書籍の出版によって出版文化は危機に瀕するという人はたくさんいます。けれども、「本棚」の機能について論及する人はいません。・・・どうして、その自己啓発的機能について論じないのでしょう。それはたぶん書籍をめぐる議論のどこかで「読書人」を「消費者」と同定したからだと思います。読者と購入者を同じものだと見なしたことによって、議論が本質から逸脱したのだと僕は思います。(p.162)

出版文化がまず照準すべき相手は「消費者」ではなく、「読書人」です。書物との深く複雑な欲望の関係のうちに絡めとられている人々です。出版人たちが既得権を守りたいとほんとうに望んでいるなら、この読書人層をどうやって継続的に形成すべきか、それを最優先的に配慮すべきだろうと思います。それは「選書と配架にアイデンティティをかける人」の絶対数を増やすことです。この「読書人」たちの絶対数を広げれば広げるほど、リテラシーの高い読み手、書物につよく固着する読み手、書物に高額を投じることを惜しまない人々が登場してくる可能性が高まる。単純な理由です。図書館の意義もわかる、専業作家に経済的保証が必要であることもわかる、著作権を保護することの大切さもわかる、著作権がときに書物の価値を損なうリスクもわかる、すべてをきちんと分っていて、出版文化を支えねばならないと本気で思う大人の読書人たちが、数百万、数千万単位で存在することが、その国の出版文化の要件です。(p.163)


電子書籍に対するに、「読書人」を対象とすることや、「書棚」との関係で語る人は、内田氏が初めてではあるまいか。きわめてまっとうな意見である。電子書籍をビジネスの側面から考えると、「読書人の書棚」という発想は出てこない。

「本を自分で買って読む人」はその長い読書キャリアを必ずや「本を購入しない読者」として開始したはずです。すべての読書人は無償のテクストを読むところから始めて、やがて有償のテクストを読む読者に育ってゆきます。
この形成過程に例外はありません。ですから、無償で本が読める環境を整備することで、一持的に有償読者が減ることは、「著作権者の不利」になるという理路が僕には理解できないのです。・・・(中略)・・・書物の価値は即自的に内在するのではなく、時間の経過の中でゆっくりと堆積し、醸成されてゆくものだと僕は思っています。(p.187)


電子書籍を仮にiPad等で何百冊所蔵しても、書棚としてみえない。つまり、

電子書籍の、紙媒体に対する最大の弱点は、電子書籍は「書棚を空間的にたかちづくることができない」ということです。(p.159)


という内田氏の言葉に集約される。仮想空間に書物を並べることは技術的にできるだろう。しかし、自室の書棚がその人の思想・人物を反映するものであるとすれば、iPad等で何千冊所蔵しても、「読書人」が書物を書架に配架することと同じではないのだ。


街場の教育論

街場の教育論


内田氏の言うように、メディアは「ジャーナリストの知的劣化」によるものであり、メディアに「危機耐性」がない限り、存続は危ういと言わねばならないだろう。


本書『街場のメディア論』は優れて、その本質をついた内容を持ち、読者である私は、著者へ感謝の意を込めて拙ブログに記録していることを申し添えておきたい。


【追記】(2010年8月29日)
内田樹氏は、本書に続き<街場論シリーズ>として、『街場の家族論』(講談社)、『街場の文体論』(ミシマ社)が刊行されることを予告している。いわゆる「定型性」や「常套型」から離れた<ウチダ語>によって語られる<街場論>は、常に新鮮な刺激を与える。著者は、自身のブログ「内田樹の研究室」の「著作権」を放棄している。「無償で読む」ことの意義を実践しているわけだ。それでも、コアな読者は、出版化された書物を購入してしまう。テクストとはそのように開かれているから「電子書籍」への移行は、あくまでビジネスの問題と捉える。内田氏は、テクストの本質が何かを分っている貴重な「賢者」なのである。


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