下流志向


内田樹の『下流志向』(講談社、2007)読了。内田氏の視点は、大学教授でありながらも、現代思想専門の立場から、対症療法的に若者の動向を捉えるのではなく、本質論的な見方をしているので、不意打ちを受けるような衝撃があるから読者は要注意、と前置きしておく。


下流志向──学ばない子どもたち、働かない若者たち

下流志向──学ばない子どもたち、働かない若者たち


内田氏は、自身のHPの「社長目線」で本書について次のように記載している。

今回の『下流志向』は『先生はえらい』と内容はほとんど同じと言って過言ではない(多少過言)ではあるけれど、標準している脳内部位が違う。『先生はえらい』は「中高生」向きに書いているので、「え〜、なんで勉強しなくちゃいけないの。ガッコなんてつまんね〜よ」というような「だりー若者」的思考を司る脳内部位向けにピンポイントされている。それにくらべてこの『下流志向』はもとがトップマネジメントカフェという経営者セミナーでの講演であるから、「社長相手」モードで理論展開がなされているのである。つまり、「あ〜、学力崩壊とかニートっていうんですか?なんか、そういう困った現象があるようですな。もちろん、当社にはそんな不細工なものはおりませんが。ははは。ま、親御さんとしちゃ、そりゃご心配ですわな」という社長的思考を司る脳内部位・・・(以下略)

先生はえらい (ちくまプリマー新書)

先生はえらい (ちくまプリマー新書)


『先生はえらい』(拙ブログ2005−02ー05参照)と同じ内容を読者の差異によって、経営者向けに『下流志向』というタイトルになったというわけだ。「学び」についての内田氏の見解は以下のとおり。

起源的な意味での学びというのは、自分が何を学んでいるかを知らず、それが何の価値や意味や有用性をもつものであるかも言えないというところから始まるものなのです。というよりむしろ、自分が何を学んでいるかを知らず、その価値や意味や有用性を言えないという当の事実こそが学びを動機づけているのです。(p.63)


学習しない子供は、商品の等価交換的思考により、いわば積極的に「学習しない」ことを選択しているという。教育を「商品の等価交換」のように捉えていることが問題なのだ。つまりビジネス・モデルで、消費者として教育を受け止めているということになる。

内田理論によれば、「ニート」のメンタリティは「幼児期における自己形成の完了」にあるという。

子どもたちが成熟の最初の段階で、まずおのれを「消費主体」として立ち上げるというようなことは歴史上はじめてのことです。それは単に生活が豊かになったとか、物質的欲望が亢進したということではなく、そのさらに以前の問題として、子どもたちが「時間」と「変化」について自らを閉ざすように、幼くして自己形成を完了させてしまったということです。(p.126−127)


最近の大学教育であたりまえのように「シラバス」が作成され、シラバスどおりの授業が要求される。内田理論からいえば、それはおかしいわけだ。あらかじめ教わる内容が分かっているのは、消費者による等価交換的発想だ。まさにビジネスモデル用語に依拠している。


シラバス」以外にも、「キャリアアップ」だの「インターンシップ」などが当然のように大学の授業として要求されるし、大学側は何の疑問もなく、卒業後のための予備的社内教育・訓練を授業と称して実施している。大学生活は通常4年間しかない。その貴重な大学生活の中に、早ければ2回生から「キャリアアップ」や「インターンシップ」などで、社会に適応できるよう早期職業教育を行っている。これらは「等価交換」授業にほかならない。貴重な大学時代に、社会人経験を先取りするほど、いまの学生は成熟しているのだろうか。

教育を「苦役と成果」「貨幣と商品」「投資と回収」というビジネス・モデルで考想する限り、それは必ず無時間モデルで下絵を描かれることになります。なぜなら、消費主体は時間の中で変化しない、というより変化してはならないからです。手持ちの貨幣のいくぶんかを投じ、それと等価の商品を手に入れるという交換を繰り返している限り、手持ちの資産は、形態は変化するけれど総額は変化しない。それが等価交換プロセスを生きる主体の宿命です。変化することを禁じられているというのが消費主体の宿命です。(p.154)


そもそも、内田氏のいうところの教育を受ける資質を欠いた学生が、「等価交換」として「キャリアアップ」や「インターンシップ」の授業を受ける。本人たちは、これで社会へ出て十分に「自己実現」ができると錯覚する。だからこそ、実社会にでてそのギャップの大きさについてゆけず、転職を繰り返すことになる。なんとも、矛盾した高等教育になっている。

2007年大学全入時代を迎え、大学側がやれ差別化だの、学生に付加価値をつけるだのという発想は、奇妙なことに、消費主体としての学生側の要求と符合する。

ゲームのルールが分からない中に、突然放り込まれてとまどいながら、コミュニケーションによって学習して行くプロセスを経験することが学習=教育の本質であるとすれば、教育現場は、疎外されているということになるではないか。

内田氏は、教育現場にいる人だからこそ、身近にいる「フリータ世代・ニート世代」たちの思惟方法の分析は説得的で鋭い。

ではどうすれば、「等価交換」的思考から、「ルールが分からないゲームに参加する」ことが教育を受ける「義務」ではなく「権利」と捉えることができるか。まさしく、そこが問題だ。

本書は、『先生はえらい』と併読することで、「学び」の本質が見えてくる。がしかし、若者たちが「下流志向」を回避することへの処方箋はあるのか、本書には、肝心のその点が記されていない。そこが、内田流哲学たる所以であろう。

未入手・未読のため、「処方箋」が記載されているのか不明だが、内田氏はこんな本も出している。

狼少年のパラドクス―ウチダ式教育再生論

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