小林秀雄賞『私家版・ユダヤ文化論』


拙ブログ2006−07-29で取り上げた『私家版・ユダヤ文化論』(文藝春秋,2006)が、「第6回小林秀雄章」を受賞した。


私家版・ユダヤ文化論 (文春新書)

私家版・ユダヤ文化論 (文春新書)


内田樹のいう「そのつどすでに遅れて世界に登場するもの」という発想は、レヴィナス的であり、内田理論の根幹をなす。

とまれ、第6回小林秀雄賞が内田樹『私家版・ユダヤ文化論』であったことは、新書版であろうと内容次第で、判断されるという良い前例を残した。「小林秀雄賞」には不思議な因縁を感じる。第4回茂木健一郎の『脳と仮想』以来、第5回の荒川洋治文芸時評という感想』に続いて、内田樹『私家版・ユダヤ文化論』は、すべて拙ブログでとりあげている。上記以外でも受賞作を拙ブログでとりあげている。


脳と仮想 (新潮文庫)

脳と仮想 (新潮文庫)

文芸時評という感想

文芸時評という感想


第3回の中沢新一対称性人類学 カイエ・ソバージュ V』や、第2回の吉本隆明夏目漱石を読む』および岩井克人『会社はこれからどうなるのか』、そして第1回の斉藤美奈子文章読本さん江』も読んでいる。


対称性人類学 カイエ・ソバージュ 5 (講談社選書メチエ)

対称性人類学 カイエ・ソバージュ 5 (講談社選書メチエ)

夏目漱石を読む

夏目漱石を読む

会社はこれからどうなるのか

会社はこれからどうなるのか


小林秀雄賞を受賞する作品とは、波長が合うのかもしれない。ちなみに「小林秀雄賞」の現在の選考委員は、加藤典洋関川夏央橋本治堀江敏幸養老孟司の各氏で、私の関心が選考委員の志向性と合うということだろうか。


それにしても、芥川賞直木賞はじめ、数多くの文学賞が存在する。しかし、受賞作のほとんどの作品を刊行時から注目して読むのは、結果として「小林秀雄賞」受賞作になる。芥川賞直木賞などは、いまや私的関心も低下する一方だ。同じ新潮社でも「三島由紀夫賞」や「新潮ドキュメント賞」「山本周五郎賞」なども、私の読書の範疇と重ならない。


この理由は、「小林秀雄」の名前が冠しているからだろうか。あるいは、選考委員によるものだろうか。私なりに思うのは、やはり「小林秀雄」の存在の大きさによると思われる。気になった本が「小林秀雄」受賞の知らせを受けると、読者としても嬉しいものだ。


受賞したから読むのではなく、好きな本を読んでいると、しばらくしてその本が「小林秀雄」を受賞する。これは読書人にとって、喜ぶべきことだろう。小林秀雄賞創設に感謝したい、とつくづく思うのだ。


ところで、伊藤整はかつて『求道者と認識者』のなかで、日本近代文学者を「求道的実践者の文学」と「人間性認識者の文学」に分けている。この本が書かれた1960年代時点で、前者は志賀直哉中野重治永井荷風葛西善蔵川崎長太郎など、後者は漱石、鴎外、正宗白鳥、谷崎、芥川龍之介など、と伊藤整は分類している。


小説の認識 (岩波文庫)

小説の認識 (岩波文庫)


伊藤整的分類にしたがえば、小林秀雄は「人間性認識者」となるだろうか。私としては、小林秀雄は「認識者的求道者」と捉えたい。認識者でありながら、その根底には「求道者」であり続けたと理解している。では内田氏はといえば、「人間性認識者の文学=哲学」になるだろう。武道という求道的体質がある内田樹は、小林秀雄と「認識者的求道者」という点似ている(私的偏見)のかも知れない。


歴代「小林秀雄賞」受賞作品リストから、読者は何を感じるだろうか。

小林秀雄賞受賞作品


神も仏もありませぬ

神も仏もありませぬ

文章読本さん江

文章読本さん江

「三島由紀夫」とはなにものだったのか

「三島由紀夫」とはなにものだったのか