村上春樹にご用心


内田樹村上春樹にご用心』(アルテスパブリッシング、2007.10)は、村上春樹の世界に意味を見出すのではなく、「無意味さ」こそハルキ的世界であることを、ウチダ節で語られる。


村上春樹にご用心

村上春樹にご用心


村上春樹はなぜか日本の批評家から評価されない。それは、村上春樹作品にちりばめられた謎を解明し、一定の結論を出そうとするからだ。起承転結のドグマに絡み取られた批評家は、「結論」を必要とする。
しかし、村上春樹作品には結論はない。いつも中途半端(にみえる)なまま、唐突に物語が終わる。結論は得られないのだ。


村上作品に結論はない。背後におおきな物語がかくされていて、誰もがそれを知ることができない。隠喩や暗喩や提喩などの修辞のメタファーを解くことに腐心するあまり、言葉の表層にからみとられてしまう。


蓮實重彦は「村上春樹作品は結婚詐欺だ」と罵倒し、また松浦寿輝は、村上作品を「詐欺」であると批判する。ある作品を読むことに「否」を刻印することは、はたして批評家のなすべきことなのか。「批評」あるいは「書評」とは、読書欲をそそるものでなければなるまい。


日本の文壇や批評家が無視すればするほど、村上春樹の作品は世界の多くの国に翻訳され読まれて行く。このことをどう理解すればいいのか。

内田樹によれば村上春樹とは、以下のように世界性を獲得したことになる。

村上春樹は、「私が知り、経験できるものなら、他者もまた知り、経験することができる」ことを証明したせいで世界性を獲得したのではない。「私が知らず、経験できないものは、他者もまた知り、経験することができない」ということを、ほとんどそれだけを語ったことによって世界性を獲得したのである。・・・(中略)・・・村上春樹はその小説の最初から最後まで、死者が欠性的な仕方で生者の生き方を支配することについて、ただそれだけを書き続けてきた。それ以外の主題を選んだことがないという過剰なまでの節度(というものがあるのだ)が村上文学の純度を高め、それが彼の文学の世界性を担保している。(p.183−184)


なるほど的を得た理解だ。世界性とは「死者が生者とかかわる仕方は世界のどこも同じである」ことを踏まえているかどうか、ということになる。


他者と死者―ラカンによるレヴィナス

他者と死者―ラカンによるレヴィナス


いかにも、内田氏らしい解釈であり、やはり『他者と死者』の著者である。「雪かき」の大切さを知っているのが、村上春樹であり、内田樹氏ご本人。

説得性がある、にもかかわらず村上春樹の小説世界の不可解さは、謎として残る。その謎が面白いから、村上作品を読み続けることになる。たとえば村上春樹の短編『納屋を焼く』の恐怖感が読書欲をそそるし、『かえるくん、東京を救う』で元気を貰い、『品川猿』に気づくことを知る、というように。


神の子どもたちはみな踊る (新潮文庫)

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東京奇譚集

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「象の消滅」 短篇選集 1980-1991

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