街場の教育論


内田樹『街場の教育論』(ミシマ社、2008)には、近年注目されているユビキタス教育を批判してる個所がある。いつでも、どこでも受けられるウェブ大学なるものとは、通販の論理であるという。つまりカタログにない商品は購入できないのと同様、開講科目にない授業は受けられない。また、シラバスを見たところでどの科目を受講すれば良いのか、何を基準に判断するのか解らない。


街場の教育論

街場の教育論


規制緩和による大学の濫立は、市場原理の導入であり、そのため「自己点検・評価」などの作成に要した膨大な時間は、研究者の大切な時間を奪っている。GPやCOEの採用のための資料づくりに多大な時間が割かれる。失った評価にかかるコストを文科省は計算していない。


十八歳人口なんか十八年前からわかっているわけだから、本来であれば、少子化傾向に合わせた「大学のダウンサイジング」こそを文科省が長期計画で行政指導すべきだったと私は思うのですが、そういうことは何もしなかった。(p.71)

エンドレスの評価活動によって日本の高等教育が失った(そして、今も失いつつある)知的リソースがどれだけに達するか、文科省は考えたことがあるのでしょうか。(p.81)


大学教員はFD(Faculty Development=教員資質開発)やアクレディテーション(信用供与)が強要され、貴重な研究時間や教育準備時間が奪われる事態に陥っている。


街場の現代思想

街場の現代思想


一方では、大学一年生から、キャリア教育だの、自己発見のためのプログラムが実施される。そもそも、18歳から20歳前後の若者に、自己の目的を見出すことなど、困難なはずだ。4年間以上をかけて教養教育と専門課程で学ぶことによって他者を知り、少しでも自分が解りかけるというものだ。「キャリア教育」についても、内田氏はよくわからないとしながらも、大学における「キャリア教育」とは企業経営者の意を体したコンサルタントが大学に提案しているもので、国策イデオロギーに連なるものであると批判している。



下流志向──学ばない子どもたち、働かない若者たち

下流志向──学ばない子どもたち、働かない若者たち



教育現場に浸透するグローバリズム資本主義が、本来は世俗との間に壁があったのだが、壁がなくなり、教育現場が消費社会に地続きになっていることろに、個に分解された生徒・学生たちが、「自分らしさ」の追及に追われているというのだ。教育現場の荒廃とは、商品価値が優先される世俗社会となってしまっていることに大きな原因があると指摘している。慧眼である。



困難な自由―ユダヤ教についての試論

困難な自由―ユダヤ教についての試論



内田樹氏の師が、エマニュエル・レヴィナスであることは周知のことだが、今回、武道的な身体面でのメンター・多田宏氏に出会ったことが記載されている。孔子が、「私は教えの起源ではなく、その不正確なが祖述者にすぎない」という「無主体的な主体の自覚者」であったことに、注目するのだ。教師と弟子と不在の師の三者関係が教育の本質であるという。


先生はえらい (ちくまプリマー新書)

先生はえらい (ちくまプリマー新書)


最後に、内田氏の持論である「学び」について引用。

「学び」というのは自分に理解できない「高み」にいる人に呼び寄せられて、その人がしている「ゲーム」に巻き込まれるというかたちで進行します。(p.59)

いつもながらの「ルールを知らないゲームに参加する」ことを「学び」とする内田樹氏の教育論の要のことばである。内田樹氏の著書は、似たような言説が多いが、どの本も読むたびに参考になる。内田氏は、いま一番信頼できる教育論者の一人なのだ。



街場のアメリカ論 NTT出版ライブラリーレゾナント017

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街場の中国論

街場の中国論