太宰と井伏


加藤典洋『太宰と井伏 ふたつの戦後』(講談社、2007)は、『敗戦後論』以後の、もうひとつの敗戦後論であり、『論座』2007年6月号に掲載された「戦後から遠く離れて」はその政治版である。なぜ太宰は、『人間失格』のあと、心中自殺をしたのか。


太宰と井伏――ふたつの戦後

太宰と井伏――ふたつの戦後


加藤氏によれば、戦後太宰の作品は、1947年と1948年の間に大きな差異があるという。1947年では、「ヴィヨンの妻」「女神」「フォスフォレッセンス」「朝」『斜陽』「おさん」などで、いわば、平和で小市民的な家庭生活のなかで、「人非人でもいじゃないの。私たちは、生きていさえすればいいのよ。」(「ヴィヨンの妻」)の世界から、「家庭の幸福は諸悪の本。」に至る理由を問う。


1948年になると、「桜桃」「家庭の幸福」「グッド・バイ」などから、「父はどこかで、義のために遊んでいる」(「父」)「子供より、親が大事、と思いたい」(「桜桃」)「曰く、家庭の幸福は諸悪の本。」(「家庭の幸福」)の延長上に『人間失格』がある。


さて、加藤氏は、井伏鱒二「薬屋の雛女房」に対する太宰のショックに加えて、戦死した人々への贖罪に、心中の原因をみているが、三島由紀夫仮面の告白』の太宰への類似性などを援用しながら、三島の自死に重ねるわけだが、いまひとつすっきりしない。


仮面の告白

仮面の告白


同じように、憲法問題に対する姿勢も「選び直し」といいながら、結論は現状維持に落ち着く。


敗戦後論 (ちくま文庫)

敗戦後論 (ちくま文庫)


憲法第九条をめぐる「戦後から遠く離れて」で、『敗戦後論』から10年を経た現時点での、加藤氏の見解が示される。

筆者にとって「戦後」は、人に訴えるモラルの位置から、自分だけの信奉の対象であるマクシムの位置に移る。戦争の死者の場所から考える、という筆者のモラル・バックボーンは、ふつうの人の場所から考える、という思想のオーソドクシーの場所に引き継がれる。戦争の死者たちの場所から考えることは、筆者個人にとって、大事なことだが、それと同じことを現在の若い人々に求めようとは思わない。/阿倍政権の国民投票法案とそれに続くだろう動きに対し、いま筆者が言いたいことは、一つだけである。それは、憲法改正に関しては、他国が攻めてきたらやはり怖い、というふつうの人々の不安に、しっかりと権利を与えなければ、憲法第9条の議論は弱くなる、ということだ。その不安に権利が与えられてはじめて戦後における9条の意義は、明らかになる。(p.53『論座』2007年6月号)


ここでの選択肢とは、①「高邁な理念」に現実を従わせる。②現実に基づき理念(憲法)を現実に従わせる。③「理念と現実の落差」をそのままにして現状維持をする。上の引用は、三つの選択肢から、加藤氏は、③を選択することの理由であるが、そのまま読むと②を選択することになる。


9条どうでしょう

9条どうでしょう


加藤典洋は、何が言いたいのかというと、内田樹の「憲法がこのままで何か問題でも?」論に同調することであり、憲法第9条の「理念と現実の矛盾」をそのまま認めようという態度になる。「選び直し」と、加藤氏はいうけれど、現行憲法があったからこそ戦後60年、戦争による死者を一人も出していない奇跡に近い平和を維持することができた。20世紀〜21世紀へと、世界でも稀有なことだ。なぜ「改憲」なのか、「選び直し」なのかの説得力がない。「選び直しの必要などない、何か問題でも」でいいではないか。


加藤氏の論理には、戦死者の追悼問題としての「靖国*1、「愛国心」の強要としての教育基本法改正問題、の位置づけが欠落している。憲法の改正とは、第9条の2項問題であるが、現憲法の「理念」は、「国体の解体」であり、「教育勅語の廃棄」であることを前提にすべきだ。結論として③の現状維持を選択することに変わりはないのだが、思考のプロセスに疑問がわく。


日本国憲法の条文から。「第96条 この憲法の改正は、各議院の総議員の3分の2以上の賛成で、国会が、これを発議し、国民に提案してその承認を経なければならない。この承認には、特別の国民投票又は国会の定める選挙の際行はれる投票において、その過半数の賛成を必要とする。」とあり、阿倍政権の国民投票法案が提案されている。がしかし、一方で憲法は「国の最高法規」(第97条)であり、「国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。」(第99条)と記載されており、「遵法精神」からいえば、日本国憲法の精神に反するような改正はできないことになる。


いずれにせよ、内田樹の「憲法がこのままで何か問題でも?」でいいのではないだろうか。


靖国問題 (ちくま新書)

靖国問題 (ちくま新書)

*1:ここでは高橋哲哉のいう「感情の錬金術」としての「靖国」を考えている。子供の戦死を嘆く母親が、「靖国」に招待されることで「靖国の母」に変容する過程こそ靖国問題を解く鍵がある。