村上春樹論


小森陽一村上春樹論 『海辺のカフカ』を精読する』(平凡社新書)は、村上春樹論の中でも全否定に近い批評になっている。オイディプス神話、バートンの『千夜一夜物語』、漱石の『坑夫』『虞美人草』、カフカ流刑地にて』などに言及しながら、日本の戦中・戦後史と切り結ぶ位相から、村上春樹の姿勢を鋭く批判する。


村上春樹論 『海辺のカフカ』を精読する (平凡社新書)

村上春樹論 『海辺のカフカ』を精読する (平凡社新書)


村上春樹は、自作に対する批評や批判は、肯定であろうと否定であろうが、無視するスタンスをとっている。自作の文庫化にあたっても、通常付されている「解説」がない。おそらく。村上春樹の全作品の量に匹敵するくらいの春樹論が書かれているだろう。特に、村上作品は読む人によって様々に解釈される多様性を内包している。従って、評者がどのような立場から作品を読んでいるかによって評価は完全に乖離する。


海辺のカフカ (上) (新潮文庫)

海辺のカフカ (上) (新潮文庫)

海辺のカフカ (下) (新潮文庫)

海辺のカフカ (下) (新潮文庫)


小森陽一は『海辺のカフカ』を、作品の内容に即して、対応する文学作品や、歴史認識に言及しながら解読する手法をとる。小説が、先行する小説に言及する場合は、その手法に必然性を感じるけれど、換言すれば、『流刑地にて』『千夜一夜物語』、漱石の『坑夫』『虞美人草』との関係についての読みは、作品を解読する鍵になるし、また、オイディプス神話との係わりも鍵たり得る。しかし、歴史認識(戦争、レイプ、従軍慰安婦)への関係づけは強引であり、虚構としての小説に、限定された歴史認識を導入する必然性があるのかどうか。小森氏の解読には素直について行けない違和を感じる。フイクションに歴史認識というイデオロギーで「処刑小説」と断定されても、読者は困惑するほかあるまい。

精神的外傷(トラウマ)を<解離>によってなかったことにする記憶の消去は、死者に対する応答責任の放棄でしかありません。言葉を操る生きものとしての人間は、神話、伝承、昔話、物語、そして小説によって、死者との応答をしてきたのです。『海辺のカフカ』はその歴史全体に対する裏切りなのです。(p.177)


この結論は、『海辺のカフカ』の意図からズレていないだろうか。歴史認識としての修正主義や新自由主義については小森氏の見解に賛同するけれど、小説に、「歴史認識」を求めることは「政治と文学論争」問題への回帰でしかない。大江健三郎の場合は、「歴史認識」の位相での批評が妥当だと思うが。



村上春樹は「損なわれた者」の回復を描こうとしているのであり、田村カフカという多重人格者の自己回復の物語として、読まれることを排除するものではない。当初、『海辺のカフカ』の読後感に両義的なものを抱いたことは確かだ。


村上春樹イエローページ (Part2)

村上春樹イエローページ (Part2)


加藤典洋の次の解釈が、より著者の意図に近いのではあるまいか。

この小説では解離性人格障害に苦しむ一人の少年が、ふつうの世界に戻ってくる。少年がふつうになるところで、小説は終わる。(『村上春樹イエローページ2』p.196)


作品は、読者の数だけ解釈が可能であるとすれば、小森陽一の「歴史認識」解釈もあり得る。しかしながら、「歴史認識」から村上春樹を読むことは、漱石文学の専門家としての小森氏にとって「批評」や「研究」のバランスを欠きはしないか。ここは、小説を読むことの難しさを、小森陽一はアイロニカルに提示していると解釈するに留めたい。