VOL


思想誌の創刊が相次いでいる。これまでのところ、老舗の『現代思想』と『大航海』(いずれも三浦雅士の創刊編集)くらいしかなかったのが、ここにきて、創刊ラッシュともいえる現象が見られる。もちろん、新しい世代による思想誌の創刊は歓迎されていいだだろう。


VOL 01

VOL 01


以文社の『VOL』という雑誌の創刊号01を手にして想うことだ。雑誌としては変形のA4版とは、保存するには躊躇しないわけには行かない。紙質も上質紙を使用しており、そこになにやら新しいものの気配 があるかの如く思えるが、書棚への配架に困ることも確かだ。


冒頭の編集委員による「政治とはなにか」を読むと、『VOL』の志向する位相が分かるように思える。現実はマルクスが予言したような状況になっているにもかかわらず、マルクス主義者がいなくなっていることの指摘、歴史のイロニーだ。本誌の基本的スタンスは、新自由主義批判であり、「政治から美学(文学)へ」というスローガン。ヴァールブルグ、ベンヤミンフーコードゥルーズデリダからランシエールへ。


「新しい思想が優れている」という思考には、何の保証もない。そもそも、思想や哲学に進歩乃至進化などありえない。科学的進歩は、なるほど生活を便利にしている側面があるのだろうけれど。


ここで想起するのは極端で唐突だが、小林秀雄が引用する本居宣長の言説だ。小林秀雄の『本居宣長』から本居宣長の「くず花」の文を孫引きする。

「古ヘより文字を用ひなれたる、今の世の心もて見る時は、言伝へのみならんは、万の事おぼつかなかるべければ、文字の方はるかにまさるべしと、誰も思ふべけれ共、上古言伝へのみなりし代の心に立ちかへりて見れば、其世には、文字なしとて事たらざることはなし、これは文字のみならず、万の器も何も、古ヘには無かりし物の、世々を経るまゝに、新に出来つゝ、次第に事の便よきやうになりゆくめる、その新しく出来始めたる物も、年を経て用ひなれての心には、此物なかりけむ昔は、さこそ不便なりつらめと思へ共、無かりし昔も、さらに事は欠かざりし也」(p.168『小林秀雄全作品28』)

小林秀雄全作品〈28〉本居宣長〈下〉

小林秀雄全作品〈28〉本居宣長〈下〉

「文字は不朽の物なれば、一たび記し置きつる事は、いく千年を経ても、そのまゝに遣るは文字の徳也、然れ共文字なき世は、文字なき世の心なる故に、言伝へとても、文字ある世の言伝へとは大に異にして、うきたることさらになし、今の世とても、文字知れる人は、万の事を文字に預くる故に、空にはえ覚え居らぬ事をも、文字知らぬ人は、返りてよく覚え居るにてさとるべし」(p.169『小林秀雄全作品28』)


「文字」といういわば思考の原型についてさえ、宣長によれば「其世には、文字なしとて事たらざることはなし」という。また、「文字なき世は、文字なき世の心なる故に、言伝へとても、文字ある世の言伝へとは大に異にして、うきたることさらになし」とまで言う。文字により思想が形象化され、永久に残される。宣長の言説は、ギリシア哲学におけるソクラテスの言説とプラトンの記述に匹敵する。


「文字なき世」は、「コンピュータなき世」あるいは「ケータイなき世」に置き換えることが可能だ。「○○なき世」には、それなりの生活のスタイルがあった。後世からの批判は当たらない。宣長の「此物なかりけむ昔は、さこそ不便なりつらめと思へ共、無かりし昔も、さらに事は欠かざりし也」だ。


とりわけ、日本における海外思想の受容の歴史は、丸山眞男の「古層」によれば「つぎつぎとなりゆくいきおひ」により変奏されて来た。『VOL』では、ジャック・ランシエールの「政治についての10のテーゼ」が、編集委員の座談に次いで、最初の論文として紹介される。


私見によれば、現代思想で唯一の収穫は「構造主義」だと思う。絶対的な思想などありえない。絶対的に正しい正義もない。思想は、歴史的・地域的に規定されることは避けられない。とすれば、新しい思想などありえない、ということになりはしないか。


『VOL』の冒頭の座談会には、大学の非常勤講師と野宿者が具体的な対象としてとりあげられている。しかし、そこに見られる対談者の場所には、切迫性が感じられない。所詮、講壇的思想でしかありえない。


釜ケ崎と福音―神は貧しく小さくされた者と共に

釜ケ崎と福音―神は貧しく小さくされた者と共に


野宿者という具体性でいえば、斎藤美奈子が「朝日」で優れた書評を書いていた本田哲郎『釜ヶ崎と福音』(岩波書店)を読むことが、はるかに世界が視えるのではないか。


以上のようなことなど、あれこれ考えながら、現在複数冊の本を併読している。政治がマスコミや政治屋によって一元化されていること、ポピュリズムが、小さな組織にまで波及していることを実感しながら。