本居宣長


小林秀雄本居宣長』をやっと読了した。全五十章。『小林秀雄全作品27・28』の新かな・注釈つきで読む。遺言の話から始まって、源氏物語から古事記へ、「物のあはれ」を知る「こころばえ」を読む。


小林秀雄全作品〈27〉本居宣長〈上〉

小林秀雄全作品〈27〉本居宣長〈上〉


源氏物語』の世界と、通常は神話であると解釈される『古事記』に向かう宣長の姿勢は、まさしく小林秀雄そのものに重なる。宣長が35年かけて書き上げた『古事記伝』、そして完成まで11年かけた『本居宣長』は、通読することに大いなる困難をともなった。後半に入り、やっとリズムが掴めてきた。そして、最終章にいたり著者の意図が視えてきた。


小林秀雄全作品〈28〉本居宣長〈下〉

小林秀雄全作品〈28〉本居宣長〈下〉

本当に、死が到来すれば、万事は休する。従って、われわれに持てるのは、死の予感だけだと言えよう。しかし、これは、どうあっても到来するのである。己の死を見る者はいないが、日常、他人の死を、己の眼で確かめていない人はないのであり、死の予感は、其処に、しっかりと根を下ろしているからである。死は私達の世界に痕跡しか残さない。残すや否や、別の世界に去るのだが、その痕跡たる独特な性質には、誰の眼にも、見紛いようのないものがある。生きた肉体が屍体となる、この決定的な外物の変化は、これを眺める者の心に、この人は死んだのだという言葉を、呼び覚まさずにはいない。(p.199,『小林秀雄全作品28』)


「古学の眼」、言葉を獲得していない以前から人は、その生死を自然として受け入れていた。ところが「ことば」を獲得してしまうと、「ことば」に迷わされる。


さて、全作品版の『本居宣長』には、保田與重郎福田恒存の解説が付されている。それに、およそ、小林秀雄とな無縁の位相にいると思われる蓮實重彦の「方法としての嫉妬」(『小説論=批評論』)*1が手元にある。保田與重郎福田恒存は、小林秀雄に則して語られるから、その内容に深く参入することはさける。松岡正剛は、千夜千冊の992夜で、小林秀雄の『本居宣長』を取り上げている。しかし、小林氏に距離をとりながら、いわば彼の「無私の精神」への懐疑・批判を真っ向から書いているのは他ならぬ蓮實重彦のみである。

本居宣長』は、どこで読みはじめても、どこで読み終えても何にひとつ失うことのない書物でありながら、それが賛辞とはなりがたい例外的な著作なのである。人は、ここで小林とともに文学を嫉妬したりしないだろう。文脈から途方のなく逸脱しながらも総体を越え、全編の概念装置を露呈させながらも、なおも断片としての偏向ぶりを誇示しつづけて思考を動揺させうるような細部の戯れは、ここでは演じられていない。(p.37『小説論=批評論』)


いかにも、蓮實重彦特有の戯れの文体であり、近代的な「方法」そのものを批判した小林秀雄への方法論的批判となっているのは皮肉というべきか。「否定的な媒介者」を招き寄せながら、小林の文章は「孤独な営為」として、書かれている。無私に徹することが、小林秀雄の姿勢であり、『本居宣長』でも徂徠の「古学」への共感や、真淵や宣長から源氏物語を経て、『古事記』にいたる過程においても、つねに対象と同化する姿勢、つまり己を消す=無私の精神ではじめて「古学」に接近することが可能となる。

宣長の考えによれば、「禽獣よりもことわざしげく」、「物のあはれをしる」人間は、遠い昔から、ただ生きているのに甘んずる事が出来ず、生死を観ずる道に踏み込んでいた。この本質的な反省の事は、言わば、人の一生という限定された枠の内部で、各人が完了する他ないものであった。しかし、其処に要求されているような根底的な直感の働きは、誰もが持って生まれて来た、「まごころ」に備わる、智慧の働きであったと見ていい。そして、死に至って止むまで歩きつづける、休む事のない足どりが、「可畏き物」として、一と目で見渡せる、そういう展望は、死が生のうちに、しっかりと織り込まれ、生と初めから共存している様が観じられて来なければ、完了しないのであった。(p.205『小林秀雄全作品28』)


この文章は、先に引用した部分と照合しており、本居宣長小林秀雄の考えが良くわかるところであろう。ここから、冒頭の遺書に帰ると宣長の精神に接近することが可能だといいたげだ。

もう、終わりにしたい。結論に達したからではない。私は、宣長論を、彼の遺言書から始めたが、このように書いてくると、又、其処へ戻る他ないという思いが頻りだからだ。(p.209,『小林秀雄全作品28』)


なぜ、冒頭に遺言書を出し、お墓の話から始めたのか。宣長の死生感がそこに顕れているからと推測してみる。一日で、『本居宣長』の感想をまとめるのは難しい。

宣長が求めたものは、如何に生くべきかという「道」であった。彼は「聖学」を求めて、出来る限りの「雑学」をして来たのである。彼は、どんな「道」も拒まなかったが、他人の説く「道」を自分の「道」とすることは出来なかった。(p.125,『小林秀雄全作品27』)


この「道」を求める宣長に、小林秀雄を重ねてみると、なぜ、本居宣長に11年もかけたのかが、よく解かるような気がする。


本居宣長(上) (新潮文庫)

本居宣長(上) (新潮文庫)

本居宣長(下) (新潮文庫)

本居宣長(下) (新潮文庫)


■補記

蓮實重彦は、小林秀雄本居宣長』について、何度か「どこで読みはじめても、どこで読み終えても何にひとつ失うことのない書物」と言及しているけれど、『本居宣長』は円環的構造を持っており、冒頭から読むべき書物で、仁斎や中江藤樹、さらに徂徠についてかなりの頁を割いているのは、それなりの必然性があることを、あえて排除している。「からごごろ」を排する「古文辞学」が、宣長の「古学」への眼差しの前提となっていることは、自明である。表層として「テクスト」を読めば、そのように見えるだけだ。『本居宣長』はテクストではない。「テクスト」なる表現は、現代的「からごごろ」であることは、小林秀雄の読者なら誰もが知っている。「からごころ」に囚われてきたのが、日本の思想史にほかならない。近代以降、「からごころ」が「西欧思想」に置き換えられただけのだから。