世界漫遊随筆抄


小林秀雄の遺作『正宗白鳥の作について』(『小林秀雄全集』別巻1)で、『本居宣長』を完成させたあと、なぜ正宗白鳥について言及したのか、その点について大いに気になっていた。正宗白鳥は、各種文学全集にもほとんど登場しない。いってみれば過去の人。最近、講談社文芸文庫で『世界漫遊随筆抄』が刊行された。正宗白鳥は、小林秀雄の思想の根底にある「人生いかに生きるべきか」について真剣に向き合っている作家との判断による。


小林秀雄全集〈別巻1〉感想

小林秀雄全集〈別巻1〉感想


小林秀雄の文は、正宗白鳥の『自然主義文学盛衰史』を入り口として、その後に書かれる内容は、内村鑑三を経て、フロイトに至る。小林秀雄は「講演CD」でも述べているように、フロイトを高く評価していた。そして『精神分析入門』と『夢判断』に触れて行く。


夢判断 上 (新潮文庫 フ 7-1)

夢判断 上 (新潮文庫 フ 7-1)

彼が打ち出した学説の根底にあるのは、心的現実性は、物的現実性と決して混同してはならない一個特別な存在形式であるといふ考えである・・・(p.429,『小林秀雄全集別巻1』)

夢の世界とは、まさしく、死んでから私達の魂が行く冥界、冥府と呼んでいい世界である事が確かめられたに違ひない。(p.440,『小林秀雄全集別巻1』)


小林秀雄が、宣長のあと、何処へ行こうとしていたのか。『正宗白鳥の作について』と題された著者最後のエッセイは、フロイトの世界にとどまっている。フロイトの内的体験に同化していると言っていいだろう。


小林秀雄の「近代科学批判」は徹底している。いわゆる「心脳問題」である。科学と精神は並行しないというのが、小林氏の思惟の根底にあり、まさにフロイトは「精神」の問題を己の夢体験と、患者との対話から得た「性的衝動」にあるという。

夢の背後に働いていゐて、夢を惹き起こすのに非常に重要な役割を演じてゐるのは、廣い意味でも狭い意味でも、性的と言ふより致し方のない衝動である。(p.434,『小林秀雄全集別巻1』)

さて、昨年12月刊の正宗白鳥『世界漫遊随筆抄』(講談社文芸文庫)のなかの「六十の手習い」「髑髏と酒場」「郷愁−伯林の宿」の三篇を読んでみる。少なくとも、海外滞在記としては異様ともいえるもので、そのあまりの「そっけなさ」は、一種の芸とさえ思われる。「六十の手習い」は、ロサンゼルスとパリでフランス語を習う顛末が記されているが、およそ、そこには、何の感傷もない。ただ、事実らしき様子が淡々と綴られるだけだ。「郷愁−伯林の宿」では、以下のような調子だ。


世界漫遊随筆抄 (講談社文芸文庫)

世界漫遊随筆抄 (講談社文芸文庫)

西洋では、どの国にも、小さな町にでも、美術館があって、漫遊者は美術品とお寺には食傷する有様で、ことに十字架中心の宗教画には、我々東洋人はうんざりするのだ。中世紀から文芸復興頃までの絵画や彫刻は、殆んどすべて基督教物で、日本美術のような花鳥風月の淡々たる味は全く見られない。しかし、基督や殉教者の苦闘が、歴史を通じてどれほど欧州人に浸入っているかが察せられる。(p.196,『世界漫遊随筆抄』)


終生、キリスト教に関心を抱き続けた正宗白鳥は、キリスト教に引き寄せてこのように言及する。かつてのクリスチャンとして、なんとも醒めた眼差しである。


新編 作家論 (岩波文庫)

新編 作家論 (岩波文庫)


『新編作家論』(岩波文庫、2002)所収の「トルストイについて」は、小林秀雄と「トルストイの家出」論争に発展したけれど、結果的に小林秀雄は、最後まで正宗白鳥を評価することになったのは周知のとおり。

人生救済の本家のように世界の識者に信頼されていたトルストイが、山の神を恐れ、おどおどと家を抜け出て、弧住独遭の旅に出て、ついに野たれ死した経路を日記で熟読すると、悲壮でもあり滑稽でもあり、人生の真相を鏡に掛けて見る如くである。ああ、我が敬愛するトルストイ翁!(p.443,『新編作家論』)


よく引用される箇所であるが、実際、正宗氏の文章を読んでみると、「実生活が思想」であったことがよく分かるのだった。