情報学的転回-IT社会のゆくえ


梅田望夫ウェブ進化論』の項で紹介したが、西垣通『情報学的転回-IT社会のゆくえ』(春秋社,2005.12)は,文理統合を志向する刺激的言説になっている。20世紀が「言語的転回」であったとすれば、21世紀は「情報学的転回」でなければならないと著者は言う。


情報学的転回―IT社会のゆくえ

情報学的転回―IT社会のゆくえ

コンピュ−タを中心とした現代IT文明は、ユダヤキリスト教思想を世俗化し、唯物化し、矮小化した人間観・宇宙観と切っても切れない関係にあるのです。
・・・(中略)・・・
言い換えれば、情報学的転回とは、現在のIT文明の猪突猛進を、われわれ人間の解放のために文字通り「転回」させる思想的な試みだとも位置づけられるでしょう。(p.viii-ix)


著者はメインーフレームの時代からコンピュータに係わってきた経験と、アメリカ滞在により、IT社会の思想的な根底には、普遍的な宗教的要素があり、それは、ユダヤキリスト教思想の世俗化であると言う。


日本人の無宗教が、IT社会のなかでは、世俗的消費主義、拝金主義を容認している、と著者は指摘する。聖性が求められている。

西垣氏は、インド古代哲学のヨーガに救済の方向性をみる。四つのヨーガとして
第一は、ラージャ・ヨーガ(精神統一)
第二は、バクティ・ヨーガ(信愛の道)
第三は、カルマ・ヨーガ(献身)
第四は、ギャ−ナ・ヨガ(学問)
をあげる。そして、西垣氏は、第四のギャ−ナ・ヨガをもとに「世界を正しく知ることによって救済、福音というものを求める。学問というものは本来そういうものではないか。これは私の個人的な信念」だと言う。


西垣氏は、IT社会・情報化社会やコンピュータを否定しているわけではない。

情報学的転回とは実は、人間を機械化していく現在の流れを逆回転させることなのです。機械情報にもとづく転回を拒み、生命情報にもとづく転回へと変質させること−それが真の情報学の使命ではないのか。・・・(中略)・・・ユダヤキリスト教をベースにした西洋の地のなかから、東洋の知にたいする期待が生まれていることです。(p.246)


西垣氏の、フロイト解釈には賛同できないけれど、情報化社会が進むなかで、生命情報に「聖性」を含む転回を試みる方向性に救いがあるように思える。

IT文明のなかで人間を尊重するためには、生物と機械との境界を識別する眼力がどうしても必要なのです。人間が作る機械、本質的には反復システムである機械と、繰り返しのきかない「今」を生きている生物とを峻別することから、二一世紀の知が始まると私は思います。(p.213)


おそらく『ウェブ進化論』のいう方向へ進むだろう。だからこそ、個々のかけがえのない人間存在の在り方を無視して、俯瞰的に世界を見るような視点では、モノ・カネ中心の市場主義への傾斜は免れ得ない。


西垣通『情報学的転回』は、今後の情報化社会の行方を示唆する基調な書物だ。西垣氏は、国立大学の独立行政法人化以後、「多くの大学が非常に実利的・拝金主義的になってきた」という。また、「日本には、知が外から来るんだという権威主義がある」という。「知が外からくる」とは、小林秀雄本居宣長のいう「からごごろ」である。西垣氏は、学問とは「世界を正しく知ることによって救済、福音というものを求める」ものであると言う。真の「学問」とは何か。ここは、心して考えなければなるまい。


本書は、中沢新一『神の発明』*1に触れたり、河本英夫オートポイエーシス』(青土社,1995)を引用している。「生命システムを内側からながめるオートポイエーシスの発想」に依拠している。惜しむらくは、巻末に「引用(参考)文献目録」が欲しいところだろう。


神の発明 カイエ・ソバージュ〈4〉 (講談社選書メチエ)

神の発明 カイエ・ソバージュ〈4〉 (講談社選書メチエ)


宮台真司たちと討論した『ネット社会の未来像』(春秋社,2006)は、未読だが気になる本だ。

*1:中沢新一は、新著『芸術人類学』をみすず書房から、3月に刊行する。期待度は大きい。