ある編集者の生と死


村上春樹が『文藝春秋』4月号に掲載した「ある編集者の生と死−安原顯氏のこと」が、新聞やTVニュースで取り上げられ、大きな波紋を呼んでいる。村上春樹の愛読者であり、また、編集者としての安原顯をも評価しているから、掲載原稿を読み、いささか複雑な思いがしないでもない。


村上春樹が『風の歌を聴け』で小説家デビュ−する前、ジャズ喫茶を経営していたときからの客として知り合いであった安原顯とのかかわりを前半で詳述し、編集者としての安原氏から、村上春樹は初期の頃から激励を受けていたこと。また、原稿については信頼を置かれており、誤字脱字の訂正くらいで、本文そのものへの、編集者としての口出しを一切しなかったという。


風の歌を聴け (講談社文庫)

風の歌を聴け (講談社文庫)


安原顯は、『海』や『マリ・クレール』、さらには『リテレール』の編集には定評があるし、私自身、安原氏編集の『リテレール』のバックナンバーは全て持っている。とりわけ、肺癌を宣告されて以来、BK1の「文芸サイト編集日記」が『ファイナルカウントダウン』として他界直前の4ヶ月分を収録して出版された。いわばリアルタイムで、安原顯の死を眼前にした読者としては、村上春樹の原稿流出事件は、ショッキングなニュースである。


ファイナル・カウントダウン―ヤスケンの編集長日記

ファイナル・カウントダウン―ヤスケンの編集長日記


流出した原稿は、安原顯中央公論社の編集者時代に『海』に掲載したフィッツジェラルドの翻訳『氷の宮殿』(73枚)で、古書価格が百万円を超えるという。存命中の作家の原稿は、著者のものであり、編集者が勝手に売買することはできない。出版社では、著者の原稿は金庫に収められているという。もちろん、この原稿は村上春樹が手書きで書いていた時代のもので、『ダンスダンスダンス』以降は、すべてワープロ原稿になっている。


ダンス・ダンス・ダンス(上) (講談社文庫)

ダンス・ダンス・ダンス(上) (講談社文庫)

ダンス・ダンス・ダンス(下) (講談社文庫)

ダンス・ダンス・ダンス(下) (講談社文庫)


問題は安原顯が、なぜ村上春樹の原稿を出版社に戻すことなく、所有していたかであり、また、いかなる理由で、古書店に売却したかであろう。多くは、安原氏の死後、遺言により遺族がすべての蔵書・資料等を古書店に売り渡したようだ。死者は黙して語らず。この時期に、およそ文壇的世界とは別の価値意識のもとで、批評とは離れて書いている村上春樹としては、この告発ともいえる内容の文は尋常ではない。その背後に何があったかは、正確には掴めない。


村上春樹は書いている。

僕はほとんど最初の段階から(1)自分のやりたいことを(2)自分のやりたいやり方で(3)自分のやりたいペースでやる、という方針を貫いてきた人間である。(p.269)


こんなことが可能なのは、現役の作家では村上春樹のみだろう。安原顯も小説を書いていたようで、実際に応募したこともあるらしい。しかし、編集者・書評家・批評家としてのちに活躍したことは周知のとおりだが、安原顯村上春樹の考えによれば「プロデュサー型編集者」となる。村上春樹の原稿を雑誌掲載後、個人的に所有し後に売却するという行為を、どう視るべきか。いわば、一流作家で膨大な収入を得ている有名作家、一方は一部に名前を知られているとはいえ、編集と書評等のライターではおのずと収入が異なる。


問題は、個人の倫理的次元で解決がつくのかどうか。安原顯が原稿を所有していたのは中央公論社の社員時代だ。とすれば、会社側にも管理責任という問題がありはしないか。


作家や編集者の個人名を特定して、本人の死後に、本人から弁明を聴く機会もなく、一方的に、死者を鞭打つのはいかがなものか。ましてや、村上春樹のような世界的に著名な作家が。仮に、過去の原稿が古書店で売買されていようと、それは村上氏の責任ではないのだし、放置しておいていいのではないか。もし万が一、自分が公表したくない原稿が売買されているとすれば問題は別だが。


村上春樹らしくない、たいへん難しい問題提起だ。


安原顯の代表作

決定版「編集者」の仕事

決定版「編集者」の仕事

村松友視中央公論社で同僚だった)による安原顯

ヤスケンの海 (幻冬舎文庫)

ヤスケンの海 (幻冬舎文庫)