小林秀雄とウィトゲンシュタイン


中村昇『小林秀雄ウィトゲンシュタイン』(春風社、2007.3)読了。本書は徹底して「言葉」について書かれている。小林秀雄ベルクソン論『感想』で語られるあの「おっかさんという蛍」を「童話」として書かざるをえなかったことについて。本来言語化しえない体験を、小林秀雄は別のところで「本当の言葉」と表現する。


小林秀雄とウィトゲンシュタイン

小林秀雄とウィトゲンシュタイン


著者の中村昇は、「言葉」について次のように考えている。

言葉というものは、「贋物」とでもいうべき性質を、その本質としてもつ。たとえば言葉は、ある対象を指示するといわれる。しかし、言葉そのものは、決して対象と一致することはない。一致したら、指示することもできなくなる。対象とつかず離れず、これが言葉のあり方だ。(p.7)

言葉と対象とは何の関係もないのだれど、言葉が対象(連続)に働きかけることによって、「対象」(非連続)が現れる。この言葉のもと、虚を実にする力こそ、小林秀雄の中心のテーマだった。(p.8−9)


著者中村昇は、木田元を師とする。木田氏は「本当になにもかにもを小林秀雄から教わった」という。小林秀雄こそ「言葉」と終始挌闘しつづけた批評家なのだ。

言葉は、私たちの心情よりはるか以前に、いつもすでに、くり返されていたし、現在もくり返されている。言葉は、誰にとっても、最初から他人のものだ。「こちらの所有でありながら、こちらが所有されている」のである。言葉というものは、誰が語っていようが、すべて(わたし)が語る。(わたし)以外のものが、語る主体になることは、ありえない。しかしその言葉は、万人が共有しつつしかも万人のうちの誰にも属さない、誰にとっても他人の言葉なのだ。(p.112)


私的な唯一の体験も言葉になると、一般化され相対化される。

おそるべき詩人アルトーが、どれほど力をつくしたとしても、それが「言語」であるかぎり、「私的言語のジレンマ」は、避けられない。すなわち、言葉になれば、私性はおのずと失われ、真の私性は、言葉には絶対になりえず誰にも伝わらない。唯一無二性は、決して言語化されないのだ。小林のいう「本当の話」も、このジレンマからは逃れられないだろう。<本当>をとるか、「言語」をとるか。<本当>をとったとしても、そのことを表現する手段は、どこにもない。やはり小林は、「言語」をとった。だからこそ、「童話」を書いたのでは、なかったかを。(p.118)


言語化することは、「この現実」を抽象化することであり、それが真の具体性から遠ざかり、そこに「勘違い」がおきるという。

絶対に必要な「勘違い」なのだ。われわれには、真の具体性に直接触れる可能性は閉ざされているのだから、事実をありのままに語るなどという幸せな状態は、一切ありえない。したがって、<感想>も「創作」も、程度の差に過ぎないのである。(p.141)


白痴(上) (新潮文庫)

白痴(上) (新潮文庫)

白痴(下) (新潮文庫)

白痴(下) (新潮文庫)


小林秀雄ドストエフスキイー『白痴』について書くとき、あまりにも彼の虚構の世界に同化してしまい、「真の他者」に完全に呑み込まれてしまった、と著者は指摘している。ことほどさように、言葉は難しい。


論理哲学論考 (岩波文庫)

論理哲学論考 (岩波文庫)

ウィトゲンシュタインのいう「無意味」とは、<絶対的なもの>を、相対的にしか表現することのできないわれわれのあり方そのものに根ざすといえる。言語を使用すると、かならず相対的世界に落ち込み、使用しないと、<絶対的なもの>は、見当もつかない。<それ>を手にする唯一の手段が、<それ>を手にいれたとたん、<それ>を消滅させるというわけだ。(p.229)


ここには、言葉にすることの本質的な問題が語られている。中村昇は、デリダウィトゲンシュタインの比較をするつもりで書きはじめ、小林秀雄の話になると引き込まれてしまい、「小林秀雄のいる場所」のタイトルで書き直すことになった。出来上がったのが「ある一点」とあわせた『小林秀雄ウィトゲンシュタイン』という書物になった。


本書で言及されていることは、「現象」と「言葉」の関係であり、小林秀雄『感想』内の童話と、「『白痴』について」を批評ではなく<創作>にしてしてしまった小林秀雄の言葉をめぐり、ベルクソンデリダウィトゲンシュタインを引用しながら、表現された固有の体験というものは、どのように特別なものであれ、一旦言語化されるや絶対的経験が相対的なものに変容してしまうことを、繰り返し反復される・・・そう、言葉とは他者の言葉にほかならない。


小林秀雄は、他者の言葉をねじふせてでも自己の言葉にしようとした人だった。

人生の鍛錬―小林秀雄の言葉 (新潮新書)

人生の鍛錬―小林秀雄の言葉 (新潮新書)


■追記(2007年5月26日)


中村昇『小林秀雄ウィトゲンシュタイン』は、小林秀雄の「言葉」と「場所」に言及されるが、「小林秀雄論」ではない。「言語論」をめぐって、ウィトゲンシュタインを援用しつつも、小林秀雄の「場所」から前に進まない。


「言語」表現の限界を示すことが、本書の目指すところではあるまいか。しかし、その「場所」、から、「文脈」としての「文章」を分析しないことには、小林秀雄の文章のリズムに同調することは可能だが、批判的に読むことは困難となる。「思想的体系」を構築しなかった小林秀雄に迫る方法は、やはり「言葉」から入るしかないことをアイロニカルに証明した書物であり、小林秀雄の思想の核には到達できないことを暗示しているようにも読める。


言語表現の限界をいかに超えたかを、レトリックに惑わされることなく、言葉に即して分析することが、小林秀雄の「思惟の場所」に接近することになるのではないか。多くの「小林秀雄論」では、彼の全体像を描けていない。同化するか距離をおくか、いずれにせよ「言語」表現の限界を見極めるというきわめて困難な作業だ。