ルナシー


チェコアニメの巨匠にしてシュールレアリスト、ヤン・シュヴァンクマイエルルナシー』(2005)を観る。短編のいくつかと長編『ファウスト』(1994)『悦楽共犯者』(1996)を観ている。しかし、『ルナシー』のインパクトは強烈だった。


ヤン・シュヴァンクマイエル 短篇集 [DVD]

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映画の冒頭で、監督自ら観客に語りかける。


オールアバウト シュヴァンクマイエル (Lucaの本)

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「ご来場の皆様/ご覧に入れます映画はホラーです/ホラーというジャンルならではの/落胆を皆様にお届けします/芸術はとっくに死にました/・・・いくつかのモチーフをE.A.ポー/そして涜神と破壊的な思想を/サド侯爵から拝借し/二人へのあどけない敬意として/私たちの映画を/理解して頂きたいのです/本作品のテーマは精神病院と/それを率いる者に対する/観念的な争いです/精神病院を率いるための/・・・/極端な方法が二つ/一つめは完全な自由ー/もうひとつは定着した/保守的なアプローチ/監視して体罰を繰り返すことです/しかし実はもう一つ方法があります/前述した方法の/一番悪いところを組み合わせ/そして膨張させた原理/それが使われる場所こそ−/我々が生きる/この狂った世なのです」(p.34『オールアバウトシュヴァンクマイエル』)


シュヴァンクマイエルのこの語りに、『ルナシー』の全てがある。ポオの作品は『タール博士とフェザー教授の療法』『早まった埋葬』など。サドからは精神病院内で自由を謳歌し実践する侯爵(ヤン・トシースカ)の振る舞い。『ルナシー』は、ポオの物語に、サド的な悪徳と自由を謳歌する療法を付加したストーリー展開となる。


ポオ小説全集〈1〉推理小説

ポオ小説全集〈1〉推理小説


主人公ジャン・ベルロ(パヴェル・リシュカ)は、ノックの音で目覚めると二人の屈強の男が彼を拘束しにやってくる。必死に抵抗するジャン・ベルロ。それはベルロの妄想であり、侯爵の合図で正気に還り、母の葬儀を済ませて帰途の旅にあったベルロに、宿の弁償を申し出た侯爵の誘いを受け館へ赴く。途中、ベルロの母が精神病院で他界した、その病院はシャラントンにあったとことをベルロは告白する。賢明な読者は「シャラントン」とは、あのサドが入院していた精神病院であることに気づくだろう。


侯爵は、舌を切られたドミニクを下男として使い、ベルロを客として扱う。侯爵は、神を冒涜し「人間が恐怖や希望から神を生み出した」と長広舌をふるう。キリスト像に釘を打ち、サドの小説のような饗宴が行われる。ベルロは侯爵の饗宴を盗み視る。


サド侯爵の生涯 (中公文庫)

サド侯爵の生涯 (中公文庫)


食事中のどを詰まらせた侯爵を生きたまま棺に入れドミニクとベルロは墓場まで運ぶ。これは侯爵自身の「予防療法」であり、侯爵の母は五歳のときに埋葬されたが蘇生したことが後に解かり、それがトラウマになっている。ポオ『早まった埋葬』の引用である。


侯爵は、ベルロの母の死の現場を確認することが「予防療法」になるとして、ムルロップ医師が管理する精神病院へ案内する。そこで医師は、侯爵の饗宴の場にいた女性シャルロット(アンナ・ガイスレロヴァー)を自分の娘としてベルロに紹介する。あるとき、シャルロットはこの病院の実態をベルロに教える。つまり、ポオの『タール博士とフェザー教授の療法』のように、医師と患者が入れ替わっているというのだ。そして、地下に監禁されている本当の医師クルミエールたちを救出して欲しいと。


侯爵は、10周年記念と称して、ドラクロワの絵画「民衆を率いる自由の女神」の活人画を劇場に、演出しようとする。ここでの患者たちは、なぜか生き生きとしている。それは、のちに、病院の管理医師クルミエールが救出されたときに、「監視と体罰」による13段階の療法を患者たちに実施し、侯爵やルロップ医師が「完全な自由」で患者を治療していた様子とは正反対であることが分かる仕掛けになっている。


ベルロは、淫乱なシャルロットに誘惑され騙されたことに気づくが、あの悪夢に襲われていると、クルミエール医師が拘束するためにやってくる。ベルロは永遠に精神病院から逃れられなくなってしまう。何というアイロニー。それにしてもシャルロットという蠱惑的な女性は、シュヴァンクマイエルの女性観をあらわしているといえないだろうか。どんな状況にも対応できる、しかも自らの欲望をつねに満たすべく行動している。


このようなドラマである『ルナシー』の随所に、生肉をモチーフとしたアニメのオブジェが動き回る。メタファーとしての生肉の動きは、メタレベルで男女の肉体的行動を象徴し、フィルム全体の影の世界を表している。


自由と監視という相反する治療は、現実世界のメタファーにもなっている。監督がいうホラーとは似て非なる実に畏怖すべき映画だった。この衝撃から当分抜け出せそうにない。


ルナシー』は、ポオとサドを土台として21世紀の精神病院の現状を、すなわちこの世界の現実を「芸術ならざる創作」として、フィルムに結晶化させた驚くべき必見の映画だ。


ファウスト【字幕版】 [VHS]

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