記号と事件


ドゥルーズ『シネマ2』(法政大学出版局、2006)が翻訳出版されたのが昨年11月だった。そして、いよいよ、『シネマ1』がこの6月に刊行される。それに先立ち、ドゥルーズ『記号と事件』(河出文庫、2007)が刊行された。1992年の単行本刊行から今回の文庫化にあたり大幅に改訳していると訳者は「あとがき」に記している。もちろん、問題は、『運動イメージ』と『時間イメージ』に関するインタビューにある。


記号と事件―1972‐1990年の対話 (河出文庫)

記号と事件―1972‐1990年の対話 (河出文庫)

シネマ2*時間イメージ (叢書・ウニベルシタス)

シネマ2*時間イメージ (叢書・ウニベルシタス)


ドゥルーズは、『シネマ』がベルクソン物質と記憶』に触発されていることを述べている。

物質と記憶 (ちくま学芸文庫)

物質と記憶 (ちくま学芸文庫)

物質と記憶』は、ベルクソンの全著作のなかでも例外的な、途方もない書物なのだ、そう考えたほうが正しいかもしれません。ベルクソンは、運動を持続の側におくことをやめ、一方では運動と物質とイメージのあいだに絶対の同一性を認め、もう一方では持続の全レベルを同時に共存させるものとして、時間を発見するわけです。(p.101)


ベルクソンは、『物質と記憶』で<運動イメージ>と<時間イメージ>を考えいたことはたしかで、それを映画の場で実現しなかった。ベルクソンの思考法をドゥルーズは『シネマ』に適用したわけだ。


VOL 2 (大型本)

VOL 2 (大型本)


『シネマ1』の刊行に合わせるかのように、『VOL 02』(以文社、2007.5)の第二特集として、<ドゥルーズ『シネマ』>を組んでいる。鵜飼哲田崎英明・平沢剛による鼎談「ドゥルーズ『シネマ』をめぐって」が配置される。

鵜飼:ドゥルーズが映画を語る際の、「その名に値する映画は永遠にマイナーである」という基本姿勢がなければ、『シネマ』のような素晴らしい遺産は生まれなかった、と最初に言っておきたいと思います。(p.132)

感覚の論理―画家フランシス・ベーコン論

感覚の論理―画家フランシス・ベーコン論

田崎:ドゥルーズの『シネマ』では、「フレーミング」と「画面外」の作り方には二つのやり方があり、それは区別しなければならないと言うのですね。つまり、フレームの外ではなく、あるショットの中での<外>というものがある、と。重要なのは<外>は内在性と対立しないということです。彼の芸術論では−カフカ論もプルースト論もベーコン論も全部そうですが−哲学書を読むように芸術作品を読み、その作品がなければありえない概念をどう掴んでくるか、ということを一貫してやっている。(p.135)


問題提起のジョナサン・ベラー「『シネマ』は20世紀の『資本論』か?」を収録している。いずれにせよ、このように、ドゥルーズの『シネマ』は20世紀の古典になりつつある。原書刊行から20年以上を経過して翻訳書が出版されるというのも、出版界では稀有なことだろう。『シネマ1*運動イメージ』の6月刊行が待たれる。


ドゥルーズ KAWADE道の手帖

ドゥルーズ KAWADE道の手帖