坂口安吾 百歳の異端児


今年2006年が、安吾生誕100年になる。出口裕弘坂口安吾 百歳の異端児』読了。安吾といえば、通常、『堕落論』『白痴』『桜の森の満開の下』『安吾巷談』など戦後の作品を中心にいわゆる無頼派として評価されてきた。


坂口安吾 百歳の異端児

坂口安吾 百歳の異端児


出口裕弘は、戦中の『勉強記』『総理大臣が貰った手紙の話』『盗まれた手紙の話』の3編のファルスが、正当に評価されなかったことと、戦後の一連の自伝的小説、とりわけ最大の評価は『恋をしに行く』にあり、信子像に著者の思いが重なる。


出口氏は、坂口安吾の作品の「上質なものが集中しているのは、昭和14年から22年の早春」までとする。筑摩書房版全集でいえば、3巻・4巻・5巻に収録されている作品群が対象となる。


坂口安吾全集〈03〉イノチガケ・日本文化私観 他

坂口安吾全集〈03〉イノチガケ・日本文化私観 他


プロローグのポオ『タール博士とフェザー教授の療法』の引用から始まり、坂口安吾の『盗まれた手紙の話』に至る導入部から引き込まれる。出口氏によれば、ファルス的作品の傑作であるという。確かに、『盗まれた手紙の話』が指摘されるまで、この小編は未読だった。ポオの上記作品を併せて読む。ポオには、ラカンセミネールで有名な『盗まれた手紙』があり、安吾は、ポオを意識してタイトルを付けたと思われる。『勉強記』『総理大臣が貰った手紙の話』と併せて読むと、安吾のファルス精神が理解しやすい。『風博士』など初期ファルスものより洗練されている。特に、『盗まれた手紙の話』は手さばきは鮮やかだ。



出口氏によれば、これらのファルス作品が評価されていたら、安吾のその後の作品群はまつたく異なる様相を呈していたはずだという。戦時下という状況も影響があったのかもしれないが、ファルスとして今読んでも読み応え十分だ。そう考えると、ポオは偉大であったことが、再認識される。とくに創元社版の『ポオ全集第2巻』*1は、ポオの創作の広さと、想像力の深さによって、19世紀に「小説」の原型がすべて出ていたことに驚く。



ここは、安吾について覚書なので安吾に戻る。出口氏や多くの評者が指摘するように矢田津世子との関係が、彼の生涯に決定的影響を与えたというのは、もはや否定しがたい。京都での長編『吹雪物語』の挫折。もともと、ドストエフスキーバルザックのような長編小説を書くことが、安吾の文学者としての夢だったようだ。


吹雪物語 (講談社文芸文庫)

吹雪物語 (講談社文芸文庫)


しかしながら、安吾には長編で成功した作品がない。また、小説もエッセイもあまり変わらない。そして、どちらかといえば、今日では、『堕落論』や『日本文化私観』の評価が高い。ストレートに自分の考えを理知的に書き流したエッセイに面白みがある。文章も生き生きしている。皮肉なことだ。


堕落論 (新潮文庫)

堕落論 (新潮文庫)


先のファルス群とは別に、『二十一』(1943)から始まる自伝的作品に、出口氏は注目する。がしかし、自伝連作への評価ではなく、そこに描かれる女性像が問題なのだ。肉体を持った女性。安吾の描く女性の中で、『恋をしに行く』の信子との関係のあとで、安吾が「谷村のみたされない魂」に言及する箇所。

魂とは何物だろうか。そのやうなものが、あるのだろうか。だが、何かゞ欲しい。肉欲ではない何かゞ。男女をつなぐ何かゞ。一つの組が。/すべては爽やかで、みたされてゐた。然し、ひとつ、みたされてゐない。あるひは、たぶん魂とよばねばならぬ何かゞ。(p.307『坂口安吾全集04』)

坂口安吾全集〈04〉

坂口安吾全集〈04〉


出口氏は、『恋をしに行く』の信子に理想を求め「信子という女をひとり造型してくれただけでいい。」とまで断言する。信子との一体感からは「すべてを所有する」ことは「逆説が成立」することでもある。そこから「安吾人間学」にたどりつく。

安吾が)小説家として大成する道があったとすれば、彼があの『勉強記』以下三本のファルスを深化・拡大してゆき、文壇、読書界のほうでもそうした番外の作品群を受容するようになった場合だけ−まさにその場合だけだったろうと思う。(p.188)


出口氏は安吾を「とどのつまりは安吾全集は高級雑文集だと見切ってしまえば、この半世紀前の死者が遺した膨大な”文”が生き生きと現在によみがえる。」(p.218)という。


坂口安吾全集〈05〉

坂口安吾全集〈05〉


私は、『坂口安吾全集』を、小説・エッセイ・評論などと分類することなく、「文」として読みたい。今秋、長らく待たされた別巻が刊行されると聞いた。混乱の時代の今こそ読むべきは、坂口安吾


安吾のいる風景

安吾のいる風景