ゲド戦記


あらかじお断りしておきたい。この覚書は、今ネットで宮崎吾朗バッシング現象があるらしいが、それとは全く無関係である。以下は、あくまで個人的な感想にすぎない。


宮崎吾朗の第一回監督作品『ゲド戦記』は、父駿のジブリ後継者としての可能性が判断されるアニメとなっている。プロデューサーが、宮崎作品にかかわってきた鈴木敏男。一方で、鈴木氏は押井守の『イノセンス』や『立喰師列伝』もプロデュ−スしている。


イノセンス スタンダード版 [DVD]

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芸術家の二世というのは、親の威光では評価されない。その点ジブリ提供フィルムとして、アニメ作家の実力が試される。ル=グウィンの原作ものというのは、ある程度の成功が見通されることでもある。しかし、それだけに逆に難しかったとも言えよう。


ゲド戦記 全6冊セット (ソフトカバー版)

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人物や風景の描き方は、ジブリスタイルに徹しているように見えるけれど、いわゆる宮崎アニメとは何かが微妙に異なる。宮崎アニメのリズム感がなく、予想外の展開に発展しない。


冒頭でアレン(岡田准一)が、王である父親(小林薫)殺しを決行する。エディプス神話の踏襲かと思いきや、ハイタカ=大賢人ゲド(菅原文太)に導かれ、「世界の均衡が崩れつつある」場所で、クモ(田中裕子)と戦うことになる。全編、アレンにとってのハイタカは父性的存在である。冒頭の父親殺しの意味は、最後につじつまを合わせているように見えるが、説得性がない。もちろん、アレンの父殺しは、若者たちのイニシエーションとしての「精神的な父殺し」を通過儀礼の象徴と意図していると理解できるが、父殺し→父親の代替者がアレンを導くという図式は、何のための「父殺し」なのか、疑問は氷解しない。


「世界の均衡」とは二項対立であり、『エアの創造』の「ことばは沈黙に/光は闇に/生は死の中にこそあるものなれ/飛翔せるタカの/虚空にこそ輝けるごとくに」から、生と死や、光と闇のように、それぞれが均衡することで世界が安定するというわけだ。これは、21世紀とりわけ9・11以降の世界の不均衡を視野に入れての解釈だろう。グローバル化とはアメリカ化されることにほかならないし、市場原理主義は、南北の格差を助長している。21世紀の世界の状況を反映して、「世界の均衡が崩れつつある」事態の回復を目指しているという主張も了解できる。


しかしながら、描かれる世界は、アレンの不安と分裂からの回復に焦点が絞られ、都市の人々が背景になってしまっている。アレンとその周辺のみしか見ない狭隘な世界。テーマが「世界の均衡」であれば、その世界の不均衡が具体的に描出されないと、単なるアレンのビルドゥングスロマンに終わっている。


シュナの旅 (アニメージュ文庫)

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アレンの王子としての立場とか、王=父親との関係が見えてこないのだ。いやいやそこまで要求しないとしても、アレンの少年から青年への成長作品として見ればそれなりのフィルムに収まっている。しかし、膨大な原作から父・宮崎駿の原作『シュナの旅』からエピソードをアレンの成長物語にまとめ替えることで、例えば、「ゲド」とは何なのか。なぜハイタカは「ゲド」なのか、一切の説明がないから、観客は戸惑うことになる。少年のビルドゥングスロマンであれば、原作を『シュナの旅』に絞り、タイトルも敢えて『ゲド戦記』を使用しなければ、こじんまりしたアニメの佳品に収めることは可能だった。


ゲド戦記』はアニメとしては、率直に言って凡庸である。スタジオジブリ側は「傑作」という賛辞が欲しいところ。ちなみに、父・宮崎駿の作品はほとんどが、「傑作」のレベルにあったことを思えば芸術の世界の二世伝説は生きている。子供は偉大な父親を超えることはできない。作家の娘は別として、息子の場合多くは異なるジャンルに挑戦している。スタジオ・ジブリの次世代を担う作家がそろそろ出てこないと、ビジネスとしても困るだろう。宮崎ファミリーに拘ることなく、才能ある人物を抜擢すればよい。それが普通の組織が存続のためにとっている方法だ。


宮崎駿全書

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ジブリを組織化することが賢明な策だったのかどうか。ジブリとして組織化された段階で、宮崎駿の過去の栄光を展示する箱物=物語となったのではないか、と他人事ながら懸念する。『ゲド戦記』は、結果として宮崎駿の天才性を際立たせ、逆に、宮崎吾朗はアニメ作家としての凡庸さが証明されてしまった。あまりに、恵まれた環境のなかで天才の息子は窒息するのではないか。世界に冠たるジブリが送り出すアニメには、それだけの期待がかけられているということでもある。


ユリイカ2004年12月号 特集=宮崎駿とスタジオジブリ

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■追記(2006年8月24日)


ゲド戦記』の原作者アーシュラ・K・ル=グウィンが、自身のHPで批判しているというニュースが流れた。

ル・グウィンさんは「Gedo Senki」と題した文章の中で、「8月6日にアメリカで完成した映画を見た」とした上で、「絵は美しいが、急ごしらえで、『となりのトトロ』のような繊細さや『千と千尋の神隠し』のような力強い豊かなディテールがない」「物語のつじつまが合わない」「登場人物の行動が伴わないため、生と死、世界の均衡といった原作のメッセージが説教くさく感じる」などと記した。また、原作にはない、王子が父を殺すエピソードについても、「動機がなく、きまぐれ。人間の影の部分は魔法の剣で振り払えるようなものではない」と強い違和感を表明している。(assahi.com 2006.8.24, 15:35)


アーシュラ・K・ル=グウィンは、爆笑問題太田光が『憲法九条を世界遺産に』で言及していたシオドーラ・クローバーの名で刊行された『イシ―北米最後の野生インディアン』*1文化人類学者のアルフレッド・L・クローバーと作家シオドーラ・クラコー・ブラウンの娘である。母は夫が研究で係わったアメリカ最後の生粋のインディアン「イシ」の伝記を執筆したのだった。



ル=グウィンの作家魂からいえば、アレン王子の父親殺しに納得できないというのは、当然のことだろう。原作から大きく話が変更される場合は、作品にとって必然性がなければならない。原作者さえ納得できない父親殺しに、宮崎吾朗は一体何の意味を持たせたのか、判然としない。強引に解釈すれば、父・宮崎駿殺し(精神的に)だったと言えるのかも知れない。


夜の言葉―ファンタジー・SF論 (岩波現代文庫)

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