家族のゆくえ


家族のゆくえ (学芸)

家族のゆくえ (学芸)


吉本隆明関係本がこのところやたら目につく。多くは、再編集ものや聞き書きなどだが、自ら書き下ろした本はめずらしい。『家族のゆくえ』(光文社、2006.3)は、自らの過去と老齢になった現在から、吉本氏にとっての家族観(対幻想)を中心に、娘たち、長女「ハルノ宵子(漫画家)」、次女で著名な「よしもとばなな(作家)」、その家族のありように関心が向く。そして何より、冒頭に太宰の「家庭の幸福は諸悪のもと」ということばの引用から始まっており、吉本隆明の思想が平明に語られている本だと判断した。


吉本隆明×吉本ばなな

吉本隆明×吉本ばなな


「母と子の親和力」が親子関係にとって重要であること、漱石、太宰、三島由紀夫が、幼少年時代に母親との不幸な関係が、結果的に優れた作品を残すことになったが、それは、彼らが作品として書かないわけに行かないほど、大きな心の傷だった。この原則を一般化・敷衍化することは出来ない。天才のみが「母子の不和」を作品において昇華=揚棄できる。時には、芸術ではなく結果として犯罪を招くことになりかねない。それほど、幼少年時代に母親との親和関係が後の人格形成に大きく影響する。


夏目漱石を読む

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日本近代文学の名作

日本近代文学の名作


この問題を吉本隆明は、マルクスシュンペーターの問題として提起している。

シュンペーターの考えでは、家族問題こそが階層・階級発生の第一根拠であった。家族の豊かな富裕生活、家族の社会生活の向上、社会的地位や名誉の獲取を動機の第一として、個々人はその向上に努め、優勝劣敗の差別が発生したというかなり稠密で説得力のある論説を展開している。・・・(中略)・・・私はマルクスの考え方をとる。・・・(中略)・・・「家族」問題を第一義とすると、それを包括している政治権力や社会総体としての差別・能力・勤勉主義はその現状のままで家族生活の向上、富裕化は可能であり、個々人はいつでもそれを求めることも、挫折して貧困に陥ることも可能だからだ。わたしは事実としてそれが不当だといっているのではない。シュンペーターの実証では、政治・社会権力の音問題は空白のまま棚上げされてしまうのだ。それは必然的に資本主義のまま構造改革になってしまう。(p.123−124)


吉本氏は、自説の「共同幻想」「対幻想」「自己幻想」の論理から、「家族」問題をみる。

国家とか政治とか法律といった問題(共同幻想)、それから社会生活における家族それ自体の問題(対幻想)、そして家族のなかの個人の問題(自己幻想)、これが全部からまりあっているのが家族問題の大きな特徴だ。(p.147)


そこには、安易な解決策など提示されていない。「マルクスの考え方をとる」と言いながらも、明快な回答は示されていない。つまり「対幻想」次元でとどめている。


カール・マルクス (光文社文庫)

カール・マルクス (光文社文庫)


では、吉本氏自身の体験から、老齢者の定義をみてみよう。

老齢者の定義はー「頭や想像力で感じていること」と、それを「精神的にか実際的にか表現すること」とのあいだの距離が普通より大きくなっている人間、となる。(p.165)

日本の専門家は老人をあなどっているように見える。それは小学校の先生が学童期の子供をあなどっているように見えるのと同じだ。(p.175)


個人的には、吉本隆明の「対幻想」論による「家族」論や、「老齢論」は首肯できるが、それが、「共同幻想」にかかわるとき、どのような位相になるのか、最後まで分からない。タイトルは『家族のゆくえ』だから、「対幻想」による家族論としては、読み応え十分な内容になっている。ここに、「共同幻想」とのかかわりを求めるのは、読者の願望にすぎない。しかし、かつて吉本隆明の一読者であった者として、「共同幻想*1へのリアルな言及がされないことから、吉本氏の本質的な問題の次元は「家族」にあったと理解したい。


西行論 (講談社文芸文庫)

西行論 (講談社文芸文庫)


極私的偏見によれば、吉本隆明の書物で後世に残るのは、『マチウ書試論』『最後の親鸞』『言語にとって美とはなにか』の三点になると予測する。「関係の絶対性」「往相→還相」「自己表出」「指示表出」だ。それに「対幻想」「自己幻想」「共同幻想」という用語。

マチウ書試論・転向論 (講談社文芸文庫)

マチウ書試論・転向論 (講談社文芸文庫)

最後の親鸞 (ちくま学芸文庫)

最後の親鸞 (ちくま学芸文庫)

定本 言語にとって美とはなにか〈1〉 (角川ソフィア文庫)

定本 言語にとって美とはなにか〈1〉 (角川ソフィア文庫)

定本 言語にとって美とはなにか〈2〉 (角川ソフィア文庫)

定本 言語にとって美とはなにか〈2〉 (角川ソフィア文庫)

*1:共同幻想論』という古典的名著があるが、一種の抽象論の域を出ていないと感じる。その限界は、その後も克服されたと思えない。