遊動論‐柳田國男と山人



柄谷行人が、『文学界』掲載の「柳田國男論」をまとめたものを、『遊動論‐柳田國男と山人』(文春新書,2014)と題して出版された。


柳田国男論

柳田国男論


初期『柳田國男論』(インスクリプト,2013)*1以後、新たに柳田論が浮上した理由として、付論「二種類の遊動性」を読むことで、近年の著作との関係が理解できる仕組みになっている。


世界史の構造 (岩波現代文庫 文芸 323)

世界史の構造 (岩波現代文庫 文芸 323)


交換様式の4つの形態の、D=Xに、柳田國男の思想・理論が該当するという見立てだ。交換様式の4つの形態とは、『世界史の構造』(岩波書店 ,2010)における、

A=互酬(贈与と返礼)
B=再分配(略取と再分配、強制と安堵)
C=商品交換(貨幣と商品)
D=X

であり、柳田國男は、交換様式では、D=Xとなる。その理由が、本書で述べられている。


柳田國男の代表作といえば、もちろん『遠野物語』で、吉本隆明が『共同幻想論』で引用することにより、文芸評論に柳田國男が参照対象となった。柳田國男は、農商務省に役人として仕事を始めている。その仕事即ち農政学を通じて膨大な資料の中から眼を惹かれたのが、山人であり、『山の人生』に収められた冒頭の「山に埋もれたる人生のある事」の悲惨な山人の話である。この冒頭の話は、小林秀雄が講演『信ずることと考えること』でも、紹介している。


遠野物語・山の人生 (岩波文庫)

遠野物語・山の人生 (岩波文庫)


さて、本書における柄谷行人のキーワードは、「山人」「共同組合」「農村生活誌」「固有信仰」である。

柳田の農業政策は、小作料の物納に反対であっただけでなく、国家による農業保護そのものに反対であった。彼の農業政策は、農家が国家に異存せず、「共同自助」を図ることである。具体的にいえば、共同組合である。(p.58)

彼が”山人”に見出したのは、「共同自助」をもたらす基礎的条件としての遊動性であった。(p.80)

柳田が農政学から民俗学へ移行し、さらに山人から常民へ、比較民俗学から「一国民俗学」へ移行したというのは、おかしい。柳田は、ある意味で、「農村生活誌」を書き続けたのだ。そのため、柳田民俗学は、通常の民俗学と考えられるものとは違っている。それは、社会学歴史学を含む。同時に、それらに文節できないものである。農村生活誌ろは農村生活史である。(p.109)

柳田がいう固有信仰の特徴は次の点にある。第一に、血縁関係の遠近、養子や結婚による縁組、あるいは生きていたときの力や貢献度とは関係なく、平等に扱われる。その者が家に何らかの関係を持つものであれば、祖霊の中に入れられる。第二に、死後の世界と生の世界の間に、往来が自由である。生者が祖霊を祀るとともに、祖霊も生を見守る。霊が生まれ変ってくることもある。(p.137)


先祖の話

先祖の話

固有信仰はたんに個人的救済の問題ではなく、社会経済の問題でもあった。敗戦が迫ったとき、柳田國男1920年代に企て挫折した様々な活動を戦後に再開することを考えていた。それらを突き詰めていくと、固有信仰の問題になる。ゆえに、彼は『先祖の話』を書いた。(p.169)


付論「二種類の遊動性」において、著者は、柳田國男が交換様式Dに該当することを証明している。

根本的に「国家に抗する」タイプの遊動民は、山人である。山人の存在を唱えた柳田は嘲笑され、次第に自説を後退させた。が、決して放棄することはなかった、定住農民(常民)に焦点を移しつつ、彼は「山人」の可能性を執拗に追及したのである。最終的に、彼はそれを「固有信仰」の中に見出そうとした。彼がいう日本人の固有信仰は、稲作農民以前のものである。つまり、日本に限定されるものではない。また、それは最古の形態であるとともに、未来的なものである。すなわち、柳田がそこに見いだそうとしたのは、交換様式Dである。(p.195)


柳田國男が、「山人」から出発し、「常民」へ、そして「一国民俗学」に至るという定説を逆転させた柄谷行人は、柳田に継続しているのは、「農村生活誌」であり、それが「固有信仰」、祖霊信仰として続いていることを、読み取り、4つの交換様式の、「D=X]に該当することにたどり着いたことになる。


たしかに、柳田國男論としては、異色の民俗学=史学として視ることから、たどり着いた結論は、『世界史の構造』の「交換様式の形態」を補完するものとなった。


「世界史の構造」を読む

「世界史の構造」を読む

哲学の起源

哲学の起源

定本 柄谷行人集〈3〉トランスクリティーク―カントとマルクス

定本 柄谷行人集〈3〉トランスクリティーク―カントとマルクス

*1:柄谷行人の「柳田國男論」は、1974年、1975年、1986年に書かれている。この時期に既に、柳田批判に対して、山人的思惟の継続について擁護しようとしている。しかし、『世界史の構造』までは交換様式の形態に結びつける方法に至っていなかったようである。